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前に戦後の元祖財界四天王の一人であり、現在のフジサンケイグループ生みの親である、水野成夫氏と岩畔の関係を示唆したところ、「あれはどういう事か」というお問い合わせをあまた頂くことになった。
不思議に思う人も多いようなので、簡単に説明しておきたい。
水野成夫氏は、若かりし頃、共産党員として幹部まで上り詰めた人である。
ある日、治安維持法に絡んでであろうか、憲兵隊に逮捕される事となった。
当時、岩畔は憲兵隊の指揮も行う立場にあったが、次々と若者達がひっくくられて来るのを見て、「共産党というものをあまり知らない若者が共産党に入っているというだけでどんどん牢屋に入れられていくが、こんな無駄なこともない、(岩畔なりの)道理を説いて説得して、共産党を脱退するというのであれば、牢屋からだしていこう」と考えた。
思い立ったら実行するのが早いのが岩畔である。
水野とは、立場の違いを越えて、気がずいぶんとあったようである。
水野は転向を誓って出獄している。
出獄した水野の回りには、尾崎士郎の人生劇場のモデルにもなった南喜一を初め転向後出獄した元共産党の仲間が集うことになるが、共産党とも縁がきれて生活のよすがを失ってしまった状態である。親分肌の水野としては苦慮する日々が続いたようであるが、ある日、南喜一だったと思うが、水たまりに沈んだ新聞紙からインクが抜けて白くなっているのを見て、「ああっ、泥がインクを吸着するからこうしたら古新聞紙からインクを抜くことができるんだ」と思いついた。そのことを水野とも相談して、考えついたのが、古新聞の再生事業であったという。
しかし、先立つものがない。考えあぐねた末に、水野は岩畔大佐のところを訪れる。金策に軍人の所に行くというのが、戦前の一面を表しているのかも知れない。
相談を受けた岩畔は「資源の乏しい日本には大事な事業だ」といい、「満州に今は使われていない製紙工場があった」と、それを北海道まで移設してあげたというのである。岩畔が、かつての関東軍の経済参謀であればこその力業ではあったのだろう。
水野、南は、その製紙工場で、国策パルプという会社を立ち上げる。その会社は現在も山陽国策パルプとして残っている。
水野はその会社で蓄えた資力で戦後、フジサンケイグループを築き上げるわけである。
いうなれば、岩畔が現在のフジサンケイグループの基を築いたということでもある。
善し悪しを言うつもりはないが、岩畔のこうしたスケールの大きなところが私は好きだ。

ちなみに、大戦中、岩畔はインド独立工作を行っているが、その時は、岩畔に乞われた水野がシンガポールまで出向いて岩畔を助けている。
なぜ、岩畔は水野を呼び寄せたのか。
対英インド独立工作を行うに当たってはアジア各国で地下活動を行っている独立勢力との協力が必要であった。
「地下活動をしている者の気持ちは、地下活動をしてきた者が一番よく分かる」
と言うのが岩畔の言であった。
こうしたふところの深い人材活用が岩畔の真骨頂である。



前にも記したように、岩畔に関する本を出版した後、岩畔ゆかりの多くの人たちに巡り会うことが出来た。
AY氏はその中でも、もっとも初期に面会が実現した人であった。
AY氏のお父上が、ある教育施設の創設に携わっておられた時、陸軍に在籍していたときから教育にはことのほか熱心であった岩畔と多少の縁があり、AI氏自身も岩畔とは少なからざる縁があったという。
人づてに紹介を得て、電話をかけて面会を乞うと、即座に帰ってきたお答えも、「岩畔先生のことでしたら、なにを置いてもお会いしますよ」と、私の胸にぐっとくるものであった。
若いときから馬術をたしなまれ、オリンピックにも出場されたAI氏は、電話をかけた時も馬場におられた。
AY氏のお父上のご兄弟が私の卒業した大学の教授をされていたので、AY氏のお名前、音読みにするとユーゴーとなるが、これはフランスの文豪、ビクトル・ユーゴーにちなんだものという伝説に関しては、私も学生時代からよく人に聞いて知っていた。
岩畔豪雄の豪雄をひっくり返せばAY氏のとなるのも、何かの縁ではあろう。
某教育施設の創設にまつわる、こんな話を懐かしそうにされた。
「あることで障害が発生して、岩畔先生が『よし、これは福田くんにやってもらおう』と言われ、その場に同席していたまだ学生の私が電話をかけることになりました。その時、福田さんは大蔵大臣をされておられ、大蔵省に電話をかけたのですが、『大蔵省につながりました』と私が言っても、岩畔先生は『福田くんにつながったのか』と仰るので『まだです』とご返事申し上げると、『福田くんにつないでもらいなさい』と、それまでのお話をまた続けられ、仕方がないので、『これこれこういうもので岩畔先生からです』と電話を次々とつないでもらって、とうとう、当時の福田蔵相が『福田です』と出てくるまで、岩畔さんはほかの話を続けておられました」

AY氏の記憶にある岩畔は、強固な意志と迫力を備え、某教育施設創設に関わる諸問題、諸障害を次々と解決していった人物のようである。

AY氏には、氏の人生に関してもいろいろなお話を伺い、私自身の人生にとっても大きな教訓とすることが出来たと思う。

岩畔の行った日米交渉に関する評価、つまり、戦前、日本が必死で開戦を回避しようとしたという事実が、戦後はさほど人々に顧みられなくなったように、日常遭遇する人の世の諸々の『評価』なども、時の『力』によって容易に覆されていくようではある。

そんな中で、自分をいかに失わないで生きていくか、それは岩畔自身がいろいろな教えを遺している。
その話に関しては、機会を改めてということにしたい。

02/09: 遠い記憶

世界情勢等というものは、どう転ぶか分からないものなので、これも、まった
く今の時点ではという話に過ぎないが、北朝鮮の外交はほんとうにしたたかだと
思う。金日成という男、ただのぼんぼんではなくて、日本の「エリート」外交
官が束になってかかってもかなわないほどの男かもしれない。

「もう、アメリカの堪忍袋の緒が切れて、戦争になる」
「とうとう、虎の尾を踏んだぞ」
そんな、日本の外交評論家の声をよそに、六カ国協議再開の晩餐会が昨日開催
されたとのこと。

日本の拉致家族の皆さんから見れば、さぞ、悔しいことではないかと思う。

かつて、日本は外交に破綻して第二次大戦に突入したが、それを、「あれだけ
アジア諸国を侵略して悪いことをしたらアメリカを始めとした世界の諸国を相
手の戦争に突入しても仕方がなかった」とか、「すべて軍国主義、日本の軍部
の責任だった」という、論評が戦後幅をきかせているが、決して、そんなこと
ではないということが、この一事を見てもよく分かると思う。
しかも、当時の日本は決して、今の北朝鮮のような「突拍子もない」国ではな
かったのにである。
アジアの侵略といっても、西欧諸国がさんざんアジアに版図を広げてきていた、
それまでの歴史を見れば、別にそれほど悪いことではないようにも思えるのだ
が・・・。しかも、日本は、松岡洋右率いる外務省が三国同盟にご執心するま
では精一杯、欧米諸国に協調しようともしてきた。(詳しくは、本篇をお読み
いただきたい)

内政にしても外交にしても、政治とは、所詮、パワーと利害の調整である。理
想の追求ではないという意味である。
したたかさのない政治は、政治とはいえまい。


今の政権は「美しい日本」を追求するという。
したたかであるから、そういっているのならいいのだが、本気で取り組めば、
また、厄介なことになるような気がしないでもない。

そういえば、現首相、松岡洋右とは親戚でもある。
最近、年をとってくるに従って、当然の事だろうか、年寄りの友達が増えてきた。友達とはいっても、一緒に遊びに行ったりするうようなのは若い時の話で、年をとると時に顔を合わすだけで十分「お友達」の範疇にはいるようだ。

そうはいっても、そんな淡泊な関係のなかでも、ふとした弾みで長話に花がさくことがあり、そうした時、改めて、その人のそれまで知らなかった人生の一面に妙な感動を覚えることがある。

今日は、美弥さん(仮称)の話。

美弥さんは、38で夫を亡くし、以来50年、遺された二人の子供を自分の働きひとつで養ったという。
亡くなった夫の仕事で、見よう見まねで覚えた、友禅の金細工が生計を支えたという。といっても、決して楽に儲かるようなものではなく、布団の上では寝られない生活が何年も続いたという。仕事をずっと続けて、疲れたらそのまま畳の上で寝てしまっていたという意味ではあるが。
美弥さんはお母さんは、38で8人の子を遺して亡くなっており、その兄弟姉妹の面倒もずっと見続けたあげくのことでもあり、お母さんが亡くなった年齢と自分が夫を失った年齢の一致にもなにかの縁をかんじておられるとのことだった。
今は、子供さんを始め多くの友人にも恵まれ、ついこの間、米寿を祝ってもらったのだと、明るく話しておられた。

今でも、人のお世話をするのが一番好きだとのこと、始終忙しくされておられるとのこと。高齢にも関わらず、ぼけもせず達者でいられるのは、そのおかげと思っているとのことである。
私が、岩畔豪雄について調べているということを知っているさる方のご尽力を得て、ある紀州の山林地主にお会いしたことがある。紀州で広大な山林を所有されており、所謂、大地主という部類に入る人である。東京には美術館さえ所有されているという。
氏の父上が岩畔の部下、北部大佐に戦時中、大変、世話になったということで、北部大佐のことを綴った本を出版されている。お会いした時、すでにかなりの高齢に達しておられたが、まだまだかくしゃくとした面持ちで話もしっかりされていた。
お父上の関係で、戦後、岩畔豪雄にも、京都にある氏のお父上の邸宅でよく面会されていたという。
その邸宅には、旧軍人や政治家など、多数が出入りし、時事の問題や政治に関して談論風発といった感があったという。氏は岩畔について東京に赴くこともよくあったと言うが、当時の宰相、岸伸介でさえ、岩畔が声をかければ食事などにもひょこひょこ出てきていたという。

私の著書にも記したように、岸信介といえば松岡洋右の甥にあたるが、岩畔が満州で関東軍経済参謀を務めていた時、岸はまだ満州国国務院の役人をしており、岸がその後、小林一三を下して商工大臣のポストを撮ろうとした時も、岩畔は松岡に「陸軍の意向」のとりまとめを頼まれている。面会を求められて無下に出来なかったのであろう。
戦後の岩畔は、自衛隊創設に関わるよう吉田茂から依頼されても「敗軍の将、兵を語らずだ」と固辞し、哲学的な生活に没頭、世俗に関わるのをいさぎよしとしなかったようであるが、後輩に適切な教育したり、適切なアドバイスをすることにはこだわりはなかったようである。

地主氏との会談の最後に、私自身がその時点で不可解に思っていた疑問、「なぜ、戦後、岩畔豪雄は20年間ものあいだ定職にも就かず生活できたのか、ご存知ですが」を氏に問うたところ、氏はにっこり笑ってこう答えられた。
「それは簡単ですよ、私がお金を送っていました。そのほかにも多くの人たちが、岩畔さん、北部さんを始めとした中野学校関係の人たちが生活に困らないようにしていました。特に私は父から、生涯、岩畔さんや北部さんに生活の苦労をさせてはならないと言い遺されていました」

現在のフジサンケイグループの創始者で当時、財界四天王の一人でもあった、水野成夫が、「そのほかに資金援助していた人々」の一人であることを知ったのはその後のことである。

山林地主氏の会社は、戦後復興の建築ラッシュには、ビル建設用の木製の足場用材を大量に売り上げ、財をなしたというが、戦後の日本経済の驚異的復興に岩畔らに代表される戦前日本の知恵やバイタリティが大きな支えとなっていたのは間違いないように思われるのである。

地主氏と、ともに夕食をとり、再会を約してお別れしたのが、もう3年前の事である。
今でも、元気にされているだろうか。