昨夏、古い友人、Iさんの旅立ちを見送った。
 古い友人といっても、Iさんとは同世代ではないし、長い歳月をともに過ごしたと言うわけでもない。お出会いしてから、ほんの一年と半年のおつきあいであった。

 Iさんとのご縁は、今はある国立医療機関の総長をしておられ、当時、医学部で教授をしておられたH先生からのご紹介によるものであった。2年前のことになる。

 その頃のIさんは、鈴鹿サーキットを時速200キロ近くで疾走するのが御趣味という齢(よわい)八十をいくつも越えてますます若々しい「青年」であった。

 Iさんが私との面会を希望されたのは、私が十年ほど前に出版したある本を読まれてのことであった。

 その本は、旧帝国陸軍軍人岩畔豪雄大佐(いわくろひでお:終戦時少将)が、行った太平洋戦争回避のための活動を描いたものであり、今は、完売御礼ということで、ネット上、http://iwakuro.com のアドレスに全文をあげているので興味のある方は、是非、ごらんいただきたい。

 概略は以下の通りである。
 開戦に先立つ1941年初頭、陸軍省軍事課長であった岩畔豪雄大佐は単身渡米、ユダヤのシッフ財閥が経営するクーンレーブ商会(その後、リーマン・ブラザーズに編入)の斡旋のもと、駐米大使野村吉三郎や産業組合中央金庫理事井川忠雄らとともに、国務長官コーデル・ハル、ひいてはその背後に控える米国首脳部と水面下の交渉を重ね、双方が妥協可能な条件の下、太平洋および中国の安全と平和を確保しようという「日米諒解案」(にちべいりょうかいあん)を策定した。
 これは、独ソ戦が始まる前としては、米国にとっても十分にメリットのある話で、事実、コーデル・ハルは一刻も早く日本政府の了解のもと日米首脳会談へのステップ・アップを希望していた。もちろん、日本政府閣僚のほとんどと陸海軍もそれを是としていた。
そのまま、まとまれば、太平洋戦争は未然に防げていたわけである。
しかし、好事魔多し、外務大臣松岡洋右を始めとした外務官僚らは、ドイツこそ世界の覇者となるであろうと勘違いし、諒解案に沿った交渉の推進を妨害し日本はせっかくのチャンスを逃がしてしまった。
 その後の経過は皆さんがご存知の通りである。
 岩畔は南方に飛ばされ、開戦劈頭のシンガポール攻略作戦に参加、貫通銃創を負い、その後、岩畔機関を設立、インド独立工作に従事した。


 太平洋戦争に限らず、いかにして平和を守るかを考える上で非常に大切な事実だと思うのであるが、今となっては、ほとんどの人が岩畔の名前さえご存知ないし、取り上げられるとしても「どうせ実るはずのない無駄な努力であった」とされてしまった観がある。

 戦争への道を避けようと懸命の努力をしたのが「軍人」で、外務省関係者を始めとした「文民」が、ある者はヨーロッパで快進撃を続けるヒトラーという「勝ち馬」に乗ろうと狂奔し、ある者は権力や大勢に逆らうことを恐れ、戦争への道をひた走った。

 そんな図式は、戦後日本では「無視するに限る」とばかり、ほっかむりされてしまったようである。

 ちなみに、私の祖母は旧姓岩畔という。
 私自身も岩畔豪雄とは遠い親戚になる。

 岩畔本人は、戦後も、太平洋戦争は外務省の妨害さえなければ十分に回避できたと信じていたし、身贔屓と言われるかもしれないが、私の身内でも、皆、同一見解である。

 さて、話をIさんに戻すが、Iさんは、旧陸軍が軍事密偵(スパイ)養成学校として設立した陸軍中野学校の卒業生であった。

 陸軍中野学校は、戦前日本における日本の諜報活動の実質的な総責任者、岩畔豪雄によって設立されている。Iさんは、その縁(えにし)をもって、私と是非話がしたかったというのである。

 事実、岩畔豪雄はその当時も多くの陸軍軍人から「憧れの岩畔大佐」と慕われるほどの存在であった。「身内褒め」になって恐縮であるが、「遠い親戚」なのでお許しいただきたい。私自身、調べていて、敬慕の念を禁じ得なかったほどである。

 Iさんとはほんの短い間のおつきあいであったが、岩畔豪雄のこと、岩畔豪雄が作り上げた陸軍中野学校のことなど、いろいろなことを教えていただいた。また、それだけでなく、中野学校卒業生の慰霊祭にもお招きいただき、校友会では多くの卒業生の方と親しく酒を酌み交わす機会も与えていただいた。

 皆さん、当然のことながら、かなりのご高齢であったが、矍鑠(かくしゃく)としつつも穏和で知的な老紳士ばかりであった。

 皆さん、私の書いた本にいたく喜んでいただくと同時に、異口同音に、「もし、中野学校がもう十年早く設立されていれば、日本を太平洋戦争に巻き込むことはなかった」と、悔しがられていたのが印象的であった。

 それとまったく同じ意味合いになるのであるが、「椎名裁定」で有名な自民党の政治家、椎名悦三郎氏も、「あなた(岩畔豪雄)がもしもつと早く生れていたならば、戦争が始まらなかつたかも知れぬ」と慨嘆されている。

 何百万人の犠牲者を出したあの戦争を、単に「歴史の必然」、「軍国日本の宿命」とするばかりでは、人々を真に幸せにする英知を過去から学び取ることはとうていできまい。

 そこには、人の生を愛おしむ気持ちがまったくないからである。

 「官製の歴史」が語ることのない、人々の「記憶」の中にこそ、真に歴史として学ぶべきものがあるのではないかと思った次第である。かつて哲学者として名高い梅原猛氏に拙著をお見せした折、親族によって書かれた評伝を通じてしか伝えられない歴史の真実がある、というようなお言葉もいただいた。

 Iさんが亡くなって、また一つ、遠くなった記憶があるような気がする。
 心から冥福をお祈りしたい。


 http://iwakuro.com/
岩畔豪雄君の思い出
    星野直樹 氏
  元満州国国務院総務長官 
  元内閣書記官長(東條内閣) 
    元ダイヤモンド社会長


私が岩畔豪雄君に初めて会つたのは、昭和七年九月、満州奉天の関東軍司令部においでであつた。その時、私は満州国財政部総務司長を務めており、岩畔君は陸軍大尉で、関東軍のもつとも若い参謀として、もつぱら政治経済の仕事に携わつていた。

私は、生まれたばかりの満州国の財政制度を作り上げ、第一年度の予算編成に当たり、成立の上実行に移していたが、あたかもその時大きな嵐に襲われた。

それは新しく着任した関東軍の小磯参謀長から、「このたび関東軍は顧問として、外交界の長老で関税のことには殊に詳しい斎藤良衛博士を迎えた。そして満州国の関税制度につき、案を作つてもらつた。これを実現の方針で研究してくれ」という話があつたのである。ところがその案は、私たちの考えているものとはかなり違つている。かつ独立満州国の関税制度としては、必ずしも適当でないと考えたので、急ぎ代案を作り、新京を発つて直ちに奉天の軍司令部に小磯参謀長を訪ねた。その時、参謀長に代わつて私を迎えてくれたのが岩畔君なのであつた。

前述のごとく、その時の岩畔君は見るからに若い参謀大尉、この人を関東軍の代表者と考えてよいのかと、内心不安に思つたぐらいであつた。が、いざ話を始めてみると、実に明快である。完全に私のいうところを聞き、ところどころきびしい質問を投げかける。そして、何の先入観もなく、卒直にこちらの言うところに耳を傾ける。そして、「絶対賛成だ。何の心配もなく、この案で進んでくれ」と、実にはっきりと賛意を表してくれた。

あんまりはつきりしているので、参謀長に説明する必要はないのかと念を押すと、少しも心配は要らない、私からよく話しておく、直ちに実行に移してくれという返事で、私は思わず手を差し伸べて、どうも有難うといつて握手せずにはいられなかつた。

熱河攻戦の時は、岩畔君ら二人の参謀と共に軍用機に塔乗して、前線を視察してまわつたことがある。その時私は、

 大熱河 河原に立てるかげろうの あなたに浮ぶ 朝陽の城

という一首を詠んだ。
今この歌を読み返していると、私のまぶたには、胸に参謀肩章を吊つた岩畔君の、若々しい姿がはつきり現われてくる。若い日の、なつかしい思い出である。
追悼記
重松正彦氏  
         岩畔豪雄 弔辞集「追想記」より

「国家の前途はどうでしようか」
「重松、俺の眼玉は黒いか」
「ハァ、勿論ですね」
「そうか、俺の眼の黒いうちは、日本は大丈夫だ。我々はこれから米.ソの間に綱渡りをするのだ」

これは終戦後間もなく与望をになつて帰任せられた、故将軍を陸軍省の一室へたずねた時の私との会話の一節である。
岩畔さんと接した人は誰でもそうであつたと思うが、その見解、判断に対する賛否は別として、それによつて不思議に元気づけられ、また自己の思索を進める手がかりを次々とあたえられるのが常ではなかつたろうか。

その明るく大きな心は人に信頼感をおこさせ、活気にみちた精神は連なる人々の心魂を躍動せしめずにはおかなかつた。機略縦横、状況を新しくする力、勿ちにして人を組織し、如何なる難局に面してもいつも前途に光明を見出して、方向と方策をあたえる能力。明治の建軍以来、我が陸軍が生んだ英才は多いが、その中にあって第一級に属する雄偉の大才を語ることは私の任ではないが、部下としてその片鱗は知得している。

この大才にあたえられた活動の場は余りにも狭く、その驥足を本来の面目以外にむけねばならなかつたことを、たとえそれが本人の意志であつたにせよ、私は深く残念に思うのである。それにしてもあの5Gj連隊長としての岩畔さんの指揮下に過した輝やかしい日々は今も強い思い出として充実し、実際は僅か五ケ月であるにかかわらず、永い年月を共にしたかの如く錯覚せられるのである。このことは私にとつて生涯の幸せであるが、これも故将軍の面目の一面を示すものであろう。

弔辞    

    佐藤賢了
    (友人代表・東急管財KK社長・元陸軍中将)

岩畔豪雄君、あまりに突然の御逝去に会し、幾多の想い出がこみ上げてきます。

私が泥沼の支那事変に疲れ切つて陸軍省へ帰つて来ると、君は軍事課長の椅子を退き、アメリカへ行こうとするのにバッタリ会つたとき、「一寸アメリカへ行つて、支那事変を何とか解決しようと思つてね」との余りに意外な言葉に驚かされました。人の意表に出るは戦略の奥義であり、それがまた君の特徴でありました。

待つ間程なく野村大使から、日米交渉開始の請訓が届きました。その基礎である日米諒解案は、一目君の筆になるものであり、米国は日中和平を仲介し、経済圧迫を解決する等タナボタ式の福音であり、しかも普通の外交々渉によらず、ルーズベルト大統領と近衛首相とがホノルルで直接会談して、大乗的に日米衝突を避けようとするものでありました。

恰も西郷隆盛と勝海舟の両雄が、ポンと胸を叩いて、江戸を戦火から救つたのと同じ破天荒の構想でありました。これが実現したら日本はアノ惨めな敗戦を戦わず、蒋介石も台湾に逃げ込まず、中国大陸を赤一色に塗りつぶすこともなく、そして米国も、現在ベトナムの泥沼戦争に苦しむこともなかつたでありましよう。

君は実に救世の英雄となられたはずでありました。私はただただ天を恨み、世を呪う外ありません。

岩畔君、死してもなお、お国と民とを護つて下さい。    合掌
弔辞        

        椎名悦三郎 (友人代表 衆議院議員)


岩畔さん、あなたは最近健康がすぐれないとは聞いておりましたが、今年の夏ごろでしたか、私の事務所の近くでともに食事をしたときは、まことに元気で、これならまだまだ活躍されるなと思つていた矢先の計報にびつくりしました。私はいま、心の友を失つた悲しみでいつばいです。
岩畔さん、あなたと相知つてから四十五、六年になります。あなたが陸大卒業後間もない頃、陸軍中尉で内閣資源局勤務中で、上役の堀三也少佐とともに愛知県に出張された時が、あなたと会つた最初でした。私は当時愛知県商工課長として名古屋に在住しておりましたので、公務としてお二人をお迎えしたわけです。

用務をすませて、夕刻、粗末ながら食事をともにしながら、親しく歓談の機会を得たのでした。初対面ながら妙に意気投合し、酔う程に大いに談論風発お終いには甚句をうたい、踊り出すというところまで歓を尽す始末でした。
これが御縁で、あなたは陸軍省に私は商工省に戻つてからでも、何か機会あつて顔を合わせる度毎にこの話しが出て、段々二人の間に親近感が深まつて来たのでした。

昭和八年、商工省から多数満州国に派遣されることとなり、私もその中に加わつて渡満いたしました。丁度あなたは関東軍に在勤せられ、再び旧交を温めることになつたのであります。特に私の忘れることの出来ないのは、私の発案した臨時産業調査局案を実現するため、関東軍の側から非常に有力な推進をして下すつたことです。私ども商工省から派遣されたものの最大の使命はここにあつたのであり、その陰の協力者はあなたであつたといつても、決して過言ではないのであります。私が満州から帰任した昭和十四年ごろ、あなたは軍務局の軍事課長として、陸軍を通じて最も重要な中堅幹部の一人でありました。

私は時々連絡のため陸軍省を訪れ、度々お目にもかかり、夕食をともにしたことも覚えています。あるとき、ときの商工大臣藤原銀次郎さんの茶室に、岸信介氏らとともに招待されたことがありました。あなたが米国旅行をするに際して、純日本式のテーブル・マナーもまた何かの足しになるだろうからとのことでしたが、藤原さんは万事枯淡な調子で茶道の話など手短かに述べられ、あなたは熱心に興味深げに雑談しておられました。茶席における藤原翁と陸軍きつての鬼才岩畔さんとの対決は、私として忘れることの出来ぬ一場面でありました。

暫くして渡米の用務を終えて帰国され、殆んどスレスレに日米戦争が起つたと記憶しております。あなたは米国の事情をつぶさに視察して帰り、対米戦争は極めて危険であるとの意見具申されたとか聞きました。しかしはや騎虎の勢い、いかんともなし難かつたと思います。
愚痴になりますが、あなたがもしもつと早く生れていたならば、戦争が始まらなかつたかも知れぬ、少くとも戦争の終結はもつと違つていたかも知れません。何れにしてもこの間の事情は、詳しくあなたから聞いておきたかつたと今更悔まれます。
陸軍には多くの人にお世話になりましたが、最も長いお付合いはあなたです。
終戦後も時々お目にかかることを得、最近は京都産業大学の大幹部に就任せられ、齢六十を越えてなお一学徒として究理の道に進まれる、純真にしてたくましい姿を拝見して、賛嘆惜しまざるものがありました。必ずやあなたらしい、立派な成果が得られるものと期待した次第であります。

うけたまわれば、「科学時代から人間の時代へ」との題名の下に、御遺稿がすでに大体まとめられており、わずかの整理を加えることにより、これを上梓しようとする計画があると聞きました。あなたの広い人生経験と高い理想正しい判断によつて生れた労作は、今日の世道人心に対して、絶好の贈物になるであろうと信じます。
どうぞ、心安らかにお眠りください。

岩畔豪雄の評伝を上梓して後、いろいろな、方々から、お手紙やお電話をいただいた。

ちょっと驚くところでは(私は驚いたのだが)、出版直後、小渕恵三首相当時の首相官邸からもいただいている。

だいたいは著者冥利につきるうれしい激励ばかりであった。

その中でも、とりわけ、うれしかったお手紙を紹介したい。

なお個人がダイレクトに特定できる語句を伏せ字とさせていただいたことをお断りしたい。

なお、本項は、以前に掲載した、「戦後の岩畔」を清書、改題したものである。

以下、引用
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拝啓 貴著「謀略」を拝読いたし感銘を受けました。また、昭和史を考える上でたいへん参考になりました。

 つきましては、あとがきの250貢、岩畔氏の「戦後二十年の長きにわたって空白である。」につき、私の知り得る部分をご連絡いたしたいと思います。すでにこの程度のことはご存知かもしれませんし、あまりご参考にはならぬかもしれませんが、書かせていただきます。

 簡単に自己紹介をさせていただきますが、私は昭和**年生まれ**歳の**(地名)での耳鼻科開業を三年前に引退いたした者です。中学生一年の時に岩畔家の近くに転居し、豪雄氏の一人息子、伸夫君とは中学の同級生で毎日のようにお互いの家を行き来いたしておりました。当然の事ながら、伸夫君からはお父様の事をお聞きし、豪雄氏ご自身にも時々お会いいたしました。高校に進学いたしましてからは、伸夫君は文系を目指し、また高校三年の頃には転居いたしましたので、そうしげく会うことはなくなりました。
したがって昭和23年から五年間近く、岩畔家と接触いたしておりました。つまり先生が空白とおっしゃられる期間に当たります。

 当時は私鉄の東横線の田園調布駅より徒歩十分程の所に共に家がありました。
近くには麦畑などが広がり空襲にもあっていない所で、岩畔家は家族三人に丁度と云う小ぢんまりした庭付きの平家でした。かなり古いお家で玄関から入ってすぐの応接間以外は和室で質素なお住まいでした。敗戦後間もない時期で、旧軍人という事でもあり、ことさら地味に生活していらしたように思います。しかしごく普通の平和なご家庭と云う雰囲気でした。
 豪雄氏は毎朝やや遅く電車のラッシュアワーが過ぎる境に家を出られ夜は遅くお帰りのようでした。常に数冊の本を風呂敷に包んでお持ちでした。伸夫君のお話しでは、毎日、当時の経済界の重要人物に面会しておられたようです。つまり、豪雄氏を囲む実業家の大きなグループがあったようで、この人達のコンサルタントをしていらしたようです。とにかく桁外れの読書家で家の中は応接間以外は足の跨み場もない程、床の間の上にまで書物がうずたかく積まれ、家具が見えない程でした。この光景を最初に見た時はその異様さに驚きました。家の床が何時抜けるかと伸夫君がいつも心配していました。

 日曜日は必ずといってよい程、午前から来客があり、ご趣味の碁を指しながらお話をしていらしたようで、応接間には近付かぬよう、大きな声を出さぬよう注意いたしておりました。時には応接間の窓から首を出して「おう、来てるのかい。」などとお声をかけていただきました。子煩悩な面もおありだったと思います。ただ、時代が違うとは云いながら伸夫君とキャッチボウルなどと云う事はなかったようです。しかし一度だけ三人で食事をした記憶があります。

 伸夫君がカメラを買うのに付き合いました。私が高校時代の終りにカメラを始めたので意見を聞かれ銀座へ行きました。日本のカメラが世界的に有名になり始めた頃で、ぽんとニコンの高級機をあっさり買われたのを記憶しております。その後新橋か東銀座で当時では珍しいおいしいインド料理をご馳走になりました。店のオーナーのインド人と親しそうに話しておられましたが、あとで伸夫君がインドの独立工作中に日本に亡命した人と聞き納得がゆきました。話しが多少前に戻りますが、昭和50年マッカーサーの命令で警察予備隊が創設された時、周囲の.人達から参画されないのかと随分聞かれたそうですが、全然その気は無いと断っておられたそうです。今思うと又先生の御本を読んでからは尚更、その豪雄氏の当時のお気持ちが理解できるようですが、先生は如何ですか?

 私が医学部に進学して間もなく、昭和30年に入った頃と思いますが、ついに大量の本にもびくともしない、当時としては最高級の鉄筋二階建ての自宅を、隣の駅の多摩川園駅に近い閑静な高級住宅地に新築されました。と云いましても
豪雄氏の取り巻きのそうそうたる実業家達により建てられたもので、豪雄氏の人望の高さを証明するものでした。

 その後何年経過したか定かではありませんが、豪雄氏は他界され、間もなく?
奥様も亡くなりました。豪雄氏の葬儀に実に参列者が多かった事を記憶いたしております。そして放送会社を定年まで勤めあげた伸夫君も我々の仲間内で最も早く逝ってしまいました。 取り留めもなく書いてしまいましたが、中学、高校生から見た豪雄氏の印象は、実に大きな人物で、その体躯も然る事ながらその大きさは想像を絶するものでした。暖かく包み込むような笑顔で接していただきましたが、面と向かうとご挨拶を言うのがやっとでした。目の前にまさに大きな岩が立ちはだかったようでした。今の日本男性には見られぬ凛々しさがありました。私の乏しい人生経験では、人は大きいようで小さく、小さいようで大きいと思いますが、私にとりましては、豪雄氏は真に大きい唯一の人物です。古い記憶は美化されるものかもしれませんが、今回先生の著書に接してこの思いを新たにいたしました。そして私にとりましては実に懐かしい幸せな思い出となっております。

 最後に先生の著書に接して感じました事は、今までは現在の我々の生活、今の日本の存在には、あの不毛な、大きな犠牲を伴った戦争を避けて通れなかったものと思いこんでおりましたが、必ずしもそうではなく、貧困な政治家の発想が重なって起こったものと知り得た事は、私にとっては大きな収穫でした。
ありがとうございました。

 では、ますますのご活躍を期待いたしております。  敬具

中学生の時、心に決めたとおりに、ある程度の時間の自由がきくようになって岩畔の評伝、「謀略?かくして日米は戦争に突入した」を上梓したのがもう14年も前になる。
(このサイトは、その全文をWebサイトに上げたものである)

出版後、大戦時、在スウェーデン駐在武官であった小野寺信少将(終戦時)のご家族からお手紙をいただくことがあった。
お手紙には、自分も同様の思いを抱いて日々を過ごしており、お母上で小野寺少将の奥様にあたられる小野寺百合子さんの著書「バルト海のほとりにて?武官の妻の大東亜戦争」が同封してあった。

妻として、そして母としての立場から、小野寺少将の活動が克明に描かれている労作であった。

小野寺少将は、大戦前、北欧駐在武官として、ヨーロッパ情勢を綿密に収集、分析し、日本に、多くの有益な情報を打電していた。
まだ、日本の外務大臣松岡洋右氏が、ヒットラー、ムッソリーニとスターリンを結んで、日独伊ソの四国同盟を形成することが可能だと思い、その樹立に奔走していた頃すでに、ドイツ軍の動きから独ソ開戦は必至と日本に打電し、対英米開戦は避けるように進言もしていたという。

開戦すなわち、英米中ソおよび日独伊以外の全世界を敵に回すことになるからである。
また、ドイツの「イギリス上陸作戦を準備中」という、日本に対するはったりにも、海岸線をつぶさに調査し、それだけの大作戦に間に合うほどの船舶の結集が見られないことから、虚偽である旨、打電したそうだ。
残念ながら、外務省を中心に枢軸外交一本槍であった日本ではこうした情報のすべてを握りつぶしてしまった。
岩畔が、米国で、日米諒解案の策定に奔走している頃のことである。

小野寺信少将の活動も、結局、多くの人には知られぬまま、戦後の長い月日が経ってしまったが、それを敢えて本として出版し、世に知らしめようとした百合子氏の心根はけっして他人事とも思えず、「バルト海のほとりにて」、一気に読んだことを今でも懐かしく思い出す。

戦後になって、大戦に関しては、「日本人はいかに愚かであったか」、「情報に疎かったか」、「軍事に弱かったか」、「合理的精神に欠如していたか」という論調は、これでもかと言うほどに繰り返し繰り返し喧伝されて来た。

ある意味、そう言ったり、書いたりする方々の、「自分はだけは違うぞ」という優越感も手伝ってか、「言った者勝ち」といった風情も感じられるほどに・・・。

でも、本当に、そうなのだろうか。

すべての人が、愚かだったのだろうか?
 すべての人が、一つの価値観に邁進したのだろうか?

けっして、そうではないだろう。

岩畔豪雄少将、小野寺信少将を始め、多くの人が、大向こうの喝采を受けようとするような気持ちのみじんもなく、人知れず、命をかけて、戦争を回避しようとしていたのに、戦後のある一定の思惑の中、それを知る人は意外に少ないようである。

私自身、存じあげない方も、きっと多いのではないだろうか。

かと思えば、見当違いの「国民的」高評価を得ている人もいるのだが・・・。

小野寺百合子氏は、戦後、スウェーデン・日本の文化交流にも尽力され、いっとき、テレビで人気をはくした「ムーミン」も氏が紹介したのが最初であったと聞く。

氏の終生の労作、「バルト海のほとりにて」の後書きから、その、一節を引用、紹介させていただく。

「最後に私は敢えて一言つけ加えたい。滔々たる時の流れには、一個の人間はどうにも抗し切れるものではない。一片の木片は波に押し流され水中に消え去ってしまうことが多い。だがその木片が正しいと信じて努力した行動の軌跡は、人には認められなかったとはいえ、正確に記録に止めておくことに或る意味があるのではないだろうか。本書は一木片の必死の行動を無視し流し去ってしまった時の流れに対するささやかな抗議でもあるのだ」 --「バルト海のほとりにて」 小野寺百合子

名もない「木片」の努力を評価しない世相は、将来「木片」たらんとする人々を無気力にするのではないかとも危惧する。

しかし、それでも、将来、同じような「時」が、再び、来た時、多くの「木片」が、人の評価など無関係に、人知れず、命をかけるのではないか。

そう期待したい。
岩畔さんを偲ぶ
        水野 成夫氏 フジテレビジョン
        (現:フジ・メディア・ホールディングス)初代社長元経団連理事

 岩畔さんは私や南喜一君を世の中に出してくれた恩人です。
 岩畔さんに始めてお会いしたのは、昭和十五年、陸軍省軍事課長をして居られた時です。
 以来今日まで深いご交誼を載いて来ました。
 岩畔さんは常に直立不動の姿勢で生きていられました。いかなる場合でも姿勢をくずすことはありませんでした。したがって私や南君のようなデタラメな人間も、岩畔さんにお会いすると、自ずから直立不動の姿勢になったものです。と言っても岩畔さんは、心の中は常に温かく、親切に、真面目に、人のこと世のことを考えている人でした。岩畔さんは典型的な武人でした。私はかげで岩畔さんの名をお呼びするときには、いつも閣下とか将軍とかいう尊称をつけていました。大佐の時代からです。

 岩畔さんのことで強く心に残っているのに、太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃があります。岩畔さんは東条内閣を代表してアメリカに渡り、ハル国務長官と折衝を続けていたのですが、「これは日米の戦争はさけられる」と考えたほど、ハル国務長官との交渉は円満に進んでいたのだそうです。これを一遍にふつ飛ばしてしまったのが、あの真珠湾攻撃を開いたときの無念さは今でも忘れられない」と岩畔さんは後々まで言っていました。

 中田英秀さんから開いたのですが、岩畔さんは大往生された時、いいお顔をしていられたそうです。ご子息も立派に成人され、念願の哲学書も書き上げられたので、安心立命の境地にあられたのでしよう。私たち後輩にとっては、これがせめてものなぐさめです。

「棺を蓋いて事定まる」 という言葉がある。

人の評価は死んで棺桶に蓋が置かれて、初めて、明らかになるといった意味ではある。

岩畔の場合、終戦後25年経って亡くなった時には、「好戦的な軍部(特に陸軍)が日本を戦争へと駆り立てた」という固定観念が社会に定着していたため、日米開戦回避に払った彼の命懸けの努力もさして評価されることがなかった。

一方、一部の外務省関係者やその周囲には、枢軸外交に固着し日本の進路を誤らせた責任を否定し、現代にまでつらなる傲りを維持し堅持するため、野村吉三郎大使、井川忠雄、岩畔らや彼らの行った初期段階における(非常に友好的かつ好調に進んでいた)日米交渉を執拗に卑小化、歪曲、誹謗する向きも多いようである。世に種は尽きまじである。

ここに、岩畔豪雄と同時代を生きた政治家、岸信介元首相が岩畔に手向けた弔辞がある。

残念ながら、日米交渉や日米諒解案への言及はされておられないが、松岡洋右元外相の甥にあたり、かつ、さまざまな政治バランスの中点に位置することにより強力な指導力を発揮した氏の立場を考えれば致し方あるまい。

しかしながら、限られた言葉のなかで述べられた岩畔像はそれなりの実像を読む者の心に投影してくれるような気がする。

大戦後から冷戦へと続く難しい時代に日本の舵取りを行った大政治家の岩畔評、皆さんはどう受け止められるであろうか。

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岩畔君を想う      
              岸  信介氏 (元内閣総理大臣)
               「追想記」より
岩畔豪雄君は快男子で、豪放姦落という言葉は彼を評するためにあるような気がする。 

彼はいかつい風貌をしていたが、その心はきわめてやさしく、親切であった。また小児のような無邪気なところがあって、誰も彼に警戒心をもたず、不思議な親近感をもってつき合った。

彼の交友範囲は非常に広く、政財界その他多方面に多数の友人知己をもっていた。このような性質はいかにも軍人のイメージから遠いようであるが、本職の軍人としては立派な武人であった。

彼が大東亜戦争に反対した話は有名である。

陸軍省の軍事課長時代.米国の戦力論から 対米戦争反対を主張したため、軍首脳の忌緯にふれ、前線へ左遷されたが、当時主戦論渦巻く軍の中で敢然として非戦論を主張することは、生命を賭けなければやれないことであって、大変な勇気を必要とするものであった。

その意味で彼の武人としての根性は正真正銘確かなものであったと思う。

その彼が今はなきことを思うと寂しい。


最近、ケイト・ブランシェット主演の「エリザベス:ゴールデン・エージ」という映画を見る機会があった。

スペインの無敵艦隊を打ち破り、大英帝国黄金時代のいしずえを築いたエリザベス一世の活躍を描いたドラマである。

その中にも出てきた、エリザベス第一の寵臣と言われたクライヴ・オーウェン演じるサー・ウォルター・ローリー卿であるが、これが実物は、また、なかなか面白い男である。

何度にもわたり新大陸(アメリカ)へと航海し、アメリカのバージニアという地名も、彼によって開かれ、生涯独身であったエリザベス女王にちなんでバージニアと命名されたとのことである。

じゃがいも、たばこなどは彼によってヨーロッパへ紹介されたという説もあるとか。

こうした新大陸で一旗あげようという試み以外に、アイルランドの紛争に身を投じ土地山分けのおこぼれにあずかったり、なかなかに大胆で破天荒な男であったようである。
そうした気質がお眼鏡にかなったのか、エリザベスには、一時、可愛がられるものの、その間に、エリザベスの侍女に手をつけたことが発覚、女王の勘気に触れ投獄されたり、果ては、罪を許され、エリザベスの寵愛を取り戻し、ジャージー島の総督に任ぜられたのも束の間、女王の死後は内乱罪に問われて投獄、その後、解放され南米探検に出かけるものの、スペイン植民地との間にもめ事を起こし、スペインの告発によってイギリスにおいて死刑に処せられている。

まさに波瀾万丈、有為転変の人生を過ごしたのがこのウォルター・ローリー卿ではある。

私の世代の人間にとっては、貴婦人の前の水たまりに自分の外套を覆い被せ、その上を歩いて渡ってもらうという「芸当」が昔から、有名であるが、これも、元祖はこのウォルター・ローリーであり、エリザベス女王のためにそうしたとのことである。

まさに、冒険家というか熱血漢というか、「男性的」を絵に描いたような人生をおくったローリーであるが、ただのマッチョではない。
教養面でも優れたものを持っていたようである。(でなければ、エリザベス女王もそれほど惚れることもなかったであろう)
彼は、最初にロンドン塔に投獄された時、有り余る時間を使って、「世界の歴史」の執筆に取り組むのである。

そこまでなら、よくある話であるが、面白いのはそこからである。
第一巻の執筆が終了し、これから第二巻に取り組もうという時に、ある出来事があって、彼は執筆を中止、それまで書きためたものをすべて燃やしてしまったという。

何が起こったというのであろうか・・・。

George Orwell ”As I please” にはこう記されている。
ある時、ローリーが寝起きする監房の窓のすぐ下で、監獄で働く者の間でけんかがあり、そのあげくに一人が死んでしまうという事件が起こった。
ローリーもその模様をつぶさに見ていたし、その後、いろいろな人に聞いてもみたが、どうして、そんなけんかが起こり、一人が死ななければならなかったのか、皆目見当もつかなかった。

そのあげくに、ローリーはそれまで書いたものも火にくべ、続篇を書こうという計画も放棄してしまったという。

「目の前で起こったことでも、『真相』はなかなか究明できないのに、大昔の話など分かるはずがない」

この話が本当であったら、ローリーはきっと、そういいたかったのに違いない。

自分自身が歴史を書き換えようと思っていたのではないかと思われるほどに、ダイナミックに自分の人生を生き抜いたローリーにとって、「ウソかホントか分かりもしない話」をしたり顔に、筆先で描き出そう(或いは「こしらえあげよう」)という行為は、独房に監禁されているより、はるかに「退屈」で「愚かしい」行為に見えたのではないだろうか。

ローリーが断頭台にあげられ、自分の首に打ち下ろされる斧を見せられた時の言葉は「これは劇薬であるが、すべての病を癒すものである」であったといわれる。(Wikipedia