明治30年10月10日、広島県倉橋島に生まれる。
陸軍幼年学校、陸軍士官学校(第30期)、シベリア出征を経て、陸軍大学校(38期)。
卒業後、整備局から関東軍経済参謀、対満事務局事務官と兵站および経済関係の職責を歴任した後、兵務局、参謀本部第8課と情報活動に従事。
その間に準備委員として陸軍中野学校の設立にもたずさわる。
その後、軍務局軍事課高級将校を経て軍務局軍事課長と陸軍官衙の要職を歴任。
大戦を目前とした昭和16年初頭、米国へ出張、野村大使らと対米交渉にあたり日米戦回避のための日米諒解案を策定するも外務省の否認を受け南方戦線転出。開戦後はシンガポール攻略戦に参加、重傷を負い、回復後、岩畔機関を設立、インド独立工作にあたる。
昭和40年、京都産業大学初代理事、同大世界問題研究所長
このたび、本サイトを立ち上げるのは、旧陸軍軍人岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐(終戦時少将)の行った太平洋戦争回避工作「神父工作」をより多くの人々に知っていただき、歴史というものがしばしば言われる「歴史観」というような言葉で代表される、固定的な観念や概念でとらえられるようなものではなく、常にあらゆる可能性、流動性をはらんで進行してきたものであり、今現在も進行しつつあるものだと言うことに思いを馳せていただきたいと思ったからである。
同様の内容で、かつて一冊の書物を上梓したこともある。
本が書店に並んでいるうちは読者から、嬉しい反響もたまさか届いたものである。
小渕首相時代、官邸から激励の電話も頂いたと聞く。留守中で、電話を直接とったわけではないが実際に外遊途中の機中でお読み頂いたと聞く。
閣僚経験者の代議士氏からエールのお手紙を頂いたこともある。
元慶大医学部教授から、この物語の主人公たる岩畔豪雄とお父上との奇縁を教えて頂いたこともある。
ベストセラーになったわけでもなかったが、そうした邂逅には心の安らぎを見いだしていた。 しかしながら、品切れとなるとこれからはそうもいくまい。
あわただしい昨今、即、大きな売り上げを見込める筈もないこうした出版を引き受けてくれる出版社はそうはあるまい。だれでも、自由に閲覧できる形でこうしてネット上に公開することとした次第である。
この話は、陸軍省軍事課長岩畔豪雄が大戦前夜に渡米、駐米大使野村吉三郎とともに行った日米交渉を描いたものである。ユダヤ財閥の思惑も見え隠れする中、戦争回避のためのアメリカとの秘密交渉が始まる。
結果として、戦争回避のための『日米諒解案』がまとまり、近衛首相以下多くの閣僚、陸海軍でさえそれに希望を託そうとするも、それを邪魔したのは、ヒトラー、スターリンとの友誼を重んじ、私利私欲、省益に固執する松岡洋右率いる外務省であった。
結果、諒解案は日の目を見ることなく、事態は悪化、日米は戦争へと突入していく。
私の知る限り、この話を本当の意味で知る人は極めて少ない。 「歴史に一家言有り」と自他共に許すような人でも、岩畔の名前さえご存知ないことも珍しくない。
戦後、外務省関係者は保身のため、自らの行った亡国行為は隠蔽し、軍部の横暴にすべてを帰し責任追及を免れた。軍関係者の多くが公職からパージされたにもかかわらず外務省関係者のほとんどが戦後も日本外交の表舞台で活躍を続けたことを見ても明らかだろう。連合国にとってもあれだけの犠牲を出した以上、「日米戦は回避できたかもしれない」という話は好ましくない。
「悪の枢軸」はいつの時代も必要なようである。
太平洋戦争から敗戦・・・。
歴史の大河は、氾濫を経た後、その流れを大きく変えた。
大洪水の後、新しく定まった川筋が安定してくると、かつての川筋の平安を守るべく払われた努力が色あせてくるのも致し方ないのかもしれない。 さらに、「日米諒解案」を破綻に導いた外務省関係者が、ネガティブキャンペーンをはったせいもあり、今では、学者も評論家もマスコミも、この話を知らない者の方が多いし、知っている者も先入観を持ってしか論評していないようである。
前置きはここまでにして、日米諒解案が本当に成立の見込みのない秘密交渉のあだ花に過ぎなかったか否か、判断は読者にお任せしたいと思う。
少なくとも、岩畔とその周囲の者は、戦後も、日米諒解案は外務省の妨害さえなければ十分に成立したと信じ続けていたことを明らかにしておきたい。