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すでに何度か紹介させて頂いたように、岩畔豪雄の本を出版したのが縁となりいろいろな出会いを経験した。しかしながら、出版からほぼ十年も経過すると、そうしたことも次第に少なくなり、もうこれから先は新しい出会いもないのかと思っていたところに、先日、思いもかけなかった方からのご紹介で、陸軍中野学校を卒業生されたIさんという方にお目にかかることになった。
紹介者は京都大学大学院の教授をしておられるH先生であった。

IさんとH先生は同郷の先輩後輩という関係で昔からのお知り合いだという、ちなみに両氏とも私にとって大学の先輩と言うことになる。
Iさんは以前から私の本を知っておられ、いつか私とコンタクトをとろうと思い、このたび、私とは同学部の先輩ということになるH先生に紹介を依頼されたとのことであった。拙著に当時日本が行っていた情報工作活動のあまりに詳しいことまでもが書いてあるのを見て、中野学校出身者の誰かと既に私がコンタクトをとっていって、そこから情報を仕入れているのかと思われていたとのことであった。
残念ながらそういうことはなく、京都大学の図書館や研究室の書庫から借り出してきた資料と自分で各地の書店、古書店を探して買い集めてきた書籍だけで書き上げたことを申し上げると、ずいぶんと驚いておられた。
既に84才になられたというI氏であるが、はつらつ、かくしゃくとしておられ、実際の年齢より20くらいは若く見えた。
実際、車の運転がお好きで、今でも年に何回かは鈴鹿サーキットのコースを時速190キロくらいでドライブされるのだという。
人というのは不思議なもので、60を過ぎると人によって老け方の差は著しくなってくるものであり、経験的に、いかに人生を精神的にはつらつと過ごしているかが反映しているのではないかと思っていたが、I氏を拝見してその信念をますます強くした次第である。

たまたま、近々、中野学校の慰霊祭があるとのことで、そこにもお招きを頂いた。
中野学校といえば、設立委員として岩畔がつくったような学校であり、何かの縁と思いありがたくお申し出を受けることとした。

当日、教えていただいた慰霊碑の場所に伺うと約百数十名の方々が参集してこられた。
ご当人が既に亡くなっていて、御家族だけで参加されておられるというパターンも多いという。
存命中とは言え、既に皆さん80を越えた方々ばかりなので、これからはご遺族の方々がこうした形で法要を担っていこうと言うことで、ご遺族の方々によって運営される「二誠会」が既に発足しているという。
大戦中の軍関係の慰霊碑でここまで法要が人数も集めてきちんとした形で続けられているのはここだけではないかという。
思えばルパング島で戦後30年間残置諜者として戦い続けた小野田寛夫さんも中野学校の出身であった。
工作員としての忍耐力や粘り強さが戦後半世紀以上も脈々と生き続けているということなのであろうか。

慰霊碑の建立にあたっては、中野学校出身者から寄金を募ったというが、建立自体に反対する意見も多かったという。もともと、秘密戦士として、「死して名を残さず」を「掟」としていたのだからそんなものを作ること自体がおかしいというのである。
結局、全員の賛同は得られなかったものの、2000?3000人の寄進を得ることができて建立が実現したという。
ちょうどその当時、小野田少尉がフィリピンで発見され、戦後続けた戦闘行為をマルコス大統領から免罪された後、無事帰国し、中野学校の存在や名前が新聞、雑誌でひんぱんに取り上げられるようになったという事実が大きかったという。
「さすがに、もういいのではないか」という気分を多くの中野学校出身者が共有したというわけである。
今では「(慰霊碑が)自分の墓だ」といって、自分自身の墓所を建てない人も多いという。

とは言っても、戦前戦中に大きな極秘任務についていた人に限って、こうした形の集いには参加しないという。
たとえかつての仲間であるとはいえ、人目に触れることそのものを嫌うのだという。
戦後も秘密戦士として活躍した人も多いようである。
インドネシアなどの独立運動に身を投じた人もいれば、占領軍が日本の「国体」を本当に存続させるつもりかどうか探るため、GHQ内部にスパイとして潜り込んだ人もいるという。それぞれの「戦い」が戦後も続いていたようである。

慰霊祭は法要が終わった後、中野学校の送別歌「三三壮途の歌」(さんさんわかれのうた)の合唱で幕を閉じた。

歌詞の2番で「いらぬは手柄浮雲の如き」とあるのが、印象深い。
場合によって、敵のふところ深く潜り込んでゆくため、祖国を裏切った売国奴に身をやつすことも辞さぬ「秘密戦士」にとって、目に見える「手柄」や「勲章」などといった「人からの評価」には何の価値も見いださないという意味である。


陸軍中野学校では、軍事密偵(スパイ)としてもっとも大切な素養を「誠実であること」としていたという。従って、謀略活動でさえ「誠を尽くして」遂行することが求められたという。
正しかったか否か、価値があったか否か、敢えて問うまい。
信念のもとに誠を尽くして困難で過酷な任務に挑んでいった人々の冥福を心から祈りたいものである。


三三壮途の歌
一、
赤き心で断じてなせば
骨も砕けよ肉また散れよ
君に捧げてほほえむ男児

二、
いらぬは手柄浮雲の如き
意気に感ぜし人生こそは
神よ与えよ万難我に

三、
大義を求めて感激の日々
仁を求めてああ仁得たり
アジアの求むはこの俺たちだ

四、
丈なす墓も小鳥のすみか
砕けし骨をモンスーンにのせて
行くや世界のすべてが墓だ

五、

丈夫生くるに
念忠ありて
闇夜を照らす巨燈を得れば
更に要せじ他念のあるを


六、
南船北馬今我は征く
母と別れて海こえて行く
同志よ兄等といつまた会わん
同志よ兄等といつまた会わん
DVDが発売されたので、映画『硫黄島からの手紙』を見た。(どうでもいいことではあるが、もう20年以上映画館では映画を見たことがない)

多少、冗長なところもあるのだが、いろいろな意味で考えさせられる映画だった。
戦後、半世紀以上も経つのに、日本でまだこれほどの戦争映画が作られたことがないというのが、悲しいところだ。

徒に日本人を愚昧に描いたり、或いは悲劇の主人公として描いたり、「平和が一番」と言わんばかりの主義主張がにじみ出しているだけの映画しかこれまで見たことがない。もちろん、「一番」であることに間違いはないのであるが・・・。
思うに、クリント・イーストウッドとスティーブン・スピルバーグ、かつての「敵国」アメリカの映画人の制作になるこの映画で初めて、日本の英霊の魂、やっと慰められたのではないだろうか。美化もされたくはないだろうし、徒に卑下されたくもない。それが戦没者たちの本当の気持ちではなかろうか。

ネタバレになってもいけないので、ここまでとして、あとは是非一度見て頂きたいものである。

ところで、先日、弘報舘の大田さんのことを記事に書いたが、彼とともに弘報舘を築いた共同経営者、故馬場新平氏は弘報舘の経営が安定するとその経営を大田さんに委ね、自らはビルマに戦没者の遺骨収集に旅だったという。同時代を生きたものとして、「骨でも拾わなければ」という思いがあったのであろう。