岩畔豪雄の評伝を上梓して後、いろいろな、方々から、お手紙やお電話をいただいた。

ちょっと驚くところでは(私は驚いたのだが)、出版直後、小渕恵三首相当時の首相官邸からもいただいている。

だいたいは著者冥利につきるうれしい激励ばかりであった。

その中でも、とりわけ、うれしかったお手紙を紹介したい。

なお個人がダイレクトに特定できる語句を伏せ字とさせていただいたことをお断りしたい。

なお、本項は、以前に掲載した、「戦後の岩畔」を清書、改題したものである。

以下、引用
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拝啓 貴著「謀略」を拝読いたし感銘を受けました。また、昭和史を考える上でたいへん参考になりました。

 つきましては、あとがきの250貢、岩畔氏の「戦後二十年の長きにわたって空白である。」につき、私の知り得る部分をご連絡いたしたいと思います。すでにこの程度のことはご存知かもしれませんし、あまりご参考にはならぬかもしれませんが、書かせていただきます。

 簡単に自己紹介をさせていただきますが、私は昭和**年生まれ**歳の**(地名)での耳鼻科開業を三年前に引退いたした者です。中学生一年の時に岩畔家の近くに転居し、豪雄氏の一人息子、伸夫君とは中学の同級生で毎日のようにお互いの家を行き来いたしておりました。当然の事ながら、伸夫君からはお父様の事をお聞きし、豪雄氏ご自身にも時々お会いいたしました。高校に進学いたしましてからは、伸夫君は文系を目指し、また高校三年の頃には転居いたしましたので、そうしげく会うことはなくなりました。
したがって昭和23年から五年間近く、岩畔家と接触いたしておりました。つまり先生が空白とおっしゃられる期間に当たります。

 当時は私鉄の東横線の田園調布駅より徒歩十分程の所に共に家がありました。
近くには麦畑などが広がり空襲にもあっていない所で、岩畔家は家族三人に丁度と云う小ぢんまりした庭付きの平家でした。かなり古いお家で玄関から入ってすぐの応接間以外は和室で質素なお住まいでした。敗戦後間もない時期で、旧軍人という事でもあり、ことさら地味に生活していらしたように思います。しかしごく普通の平和なご家庭と云う雰囲気でした。
 豪雄氏は毎朝やや遅く電車のラッシュアワーが過ぎる境に家を出られ夜は遅くお帰りのようでした。常に数冊の本を風呂敷に包んでお持ちでした。伸夫君のお話しでは、毎日、当時の経済界の重要人物に面会しておられたようです。つまり、豪雄氏を囲む実業家の大きなグループがあったようで、この人達のコンサルタントをしていらしたようです。とにかく桁外れの読書家で家の中は応接間以外は足の跨み場もない程、床の間の上にまで書物がうずたかく積まれ、家具が見えない程でした。この光景を最初に見た時はその異様さに驚きました。家の床が何時抜けるかと伸夫君がいつも心配していました。

 日曜日は必ずといってよい程、午前から来客があり、ご趣味の碁を指しながらお話をしていらしたようで、応接間には近付かぬよう、大きな声を出さぬよう注意いたしておりました。時には応接間の窓から首を出して「おう、来てるのかい。」などとお声をかけていただきました。子煩悩な面もおありだったと思います。ただ、時代が違うとは云いながら伸夫君とキャッチボウルなどと云う事はなかったようです。しかし一度だけ三人で食事をした記憶があります。

 伸夫君がカメラを買うのに付き合いました。私が高校時代の終りにカメラを始めたので意見を聞かれ銀座へ行きました。日本のカメラが世界的に有名になり始めた頃で、ぽんとニコンの高級機をあっさり買われたのを記憶しております。その後新橋か東銀座で当時では珍しいおいしいインド料理をご馳走になりました。店のオーナーのインド人と親しそうに話しておられましたが、あとで伸夫君がインドの独立工作中に日本に亡命した人と聞き納得がゆきました。話しが多少前に戻りますが、昭和50年マッカーサーの命令で警察予備隊が創設された時、周囲の.人達から参画されないのかと随分聞かれたそうですが、全然その気は無いと断っておられたそうです。今思うと又先生の御本を読んでからは尚更、その豪雄氏の当時のお気持ちが理解できるようですが、先生は如何ですか?

 私が医学部に進学して間もなく、昭和30年に入った頃と思いますが、ついに大量の本にもびくともしない、当時としては最高級の鉄筋二階建ての自宅を、隣の駅の多摩川園駅に近い閑静な高級住宅地に新築されました。と云いましても
豪雄氏の取り巻きのそうそうたる実業家達により建てられたもので、豪雄氏の人望の高さを証明するものでした。

 その後何年経過したか定かではありませんが、豪雄氏は他界され、間もなく?
奥様も亡くなりました。豪雄氏の葬儀に実に参列者が多かった事を記憶いたしております。そして放送会社を定年まで勤めあげた伸夫君も我々の仲間内で最も早く逝ってしまいました。 取り留めもなく書いてしまいましたが、中学、高校生から見た豪雄氏の印象は、実に大きな人物で、その体躯も然る事ながらその大きさは想像を絶するものでした。暖かく包み込むような笑顔で接していただきましたが、面と向かうとご挨拶を言うのがやっとでした。目の前にまさに大きな岩が立ちはだかったようでした。今の日本男性には見られぬ凛々しさがありました。私の乏しい人生経験では、人は大きいようで小さく、小さいようで大きいと思いますが、私にとりましては、豪雄氏は真に大きい唯一の人物です。古い記憶は美化されるものかもしれませんが、今回先生の著書に接してこの思いを新たにいたしました。そして私にとりましては実に懐かしい幸せな思い出となっております。

 最後に先生の著書に接して感じました事は、今までは現在の我々の生活、今の日本の存在には、あの不毛な、大きな犠牲を伴った戦争を避けて通れなかったものと思いこんでおりましたが、必ずしもそうではなく、貧困な政治家の発想が重なって起こったものと知り得た事は、私にとっては大きな収穫でした。
ありがとうございました。

 では、ますますのご活躍を期待いたしております。  敬具