前にも記したように、岩畔に関する本を出版した後、岩畔ゆかりの多くの人たちに巡り会うことが出来た。
AY氏はその中でも、もっとも初期に面会が実現した人であった。
AY氏のお父上が、ある教育施設の創設に携わっておられた時、陸軍に在籍していたときから教育にはことのほか熱心であった岩畔と多少の縁があり、AI氏自身も岩畔とは少なからざる縁があったという。
人づてに紹介を得て、電話をかけて面会を乞うと、即座に帰ってきたお答えも、「岩畔先生のことでしたら、なにを置いてもお会いしますよ」と、私の胸にぐっとくるものであった。
若いときから馬術をたしなまれ、オリンピックにも出場されたAI氏は、電話をかけた時も馬場におられた。
AY氏のお父上のご兄弟が私の卒業した大学の教授をされていたので、AY氏のお名前、音読みにするとユーゴーとなるが、これはフランスの文豪、ビクトル・ユーゴーにちなんだものという伝説に関しては、私も学生時代からよく人に聞いて知っていた。
岩畔豪雄の豪雄をひっくり返せばAY氏のとなるのも、何かの縁ではあろう。
某教育施設の創設にまつわる、こんな話を懐かしそうにされた。
「あることで障害が発生して、岩畔先生が『よし、これは福田くんにやってもらおう』と言われ、その場に同席していたまだ学生の私が電話をかけることになりました。その時、福田さんは大蔵大臣をされておられ、大蔵省に電話をかけたのですが、『大蔵省につながりました』と私が言っても、岩畔先生は『福田くんにつながったのか』と仰るので『まだです』とご返事申し上げると、『福田くんにつないでもらいなさい』と、それまでのお話をまた続けられ、仕方がないので、『これこれこういうもので岩畔先生からです』と電話を次々とつないでもらって、とうとう、当時の福田蔵相が『福田です』と出てくるまで、岩畔さんはほかの話を続けておられました」

AY氏の記憶にある岩畔は、強固な意志と迫力を備え、某教育施設創設に関わる諸問題、諸障害を次々と解決していった人物のようである。

AY氏には、氏の人生に関してもいろいろなお話を伺い、私自身の人生にとっても大きな教訓とすることが出来たと思う。

岩畔の行った日米交渉に関する評価、つまり、戦前、日本が必死で開戦を回避しようとしたという事実が、戦後はさほど人々に顧みられなくなったように、日常遭遇する人の世の諸々の『評価』なども、時の『力』によって容易に覆されていくようではある。

そんな中で、自分をいかに失わないで生きていくか、それは岩畔自身がいろいろな教えを遺している。
その話に関しては、機会を改めてということにしたい。