中学生の時、心に決めたとおりに、ある程度の時間の自由がきくようになって岩畔の評伝、「謀略?かくして日米は戦争に突入した」を上梓したのがもう14年も前になる。
(このサイトは、その全文をWebサイトに上げたものである)

出版後、大戦時、在スウェーデン駐在武官であった小野寺信少将(終戦時)のご家族からお手紙をいただくことがあった。
お手紙には、自分も同様の思いを抱いて日々を過ごしており、お母上で小野寺少将の奥様にあたられる小野寺百合子さんの著書「バルト海のほとりにて?武官の妻の大東亜戦争」が同封してあった。

妻として、そして母としての立場から、小野寺少将の活動が克明に描かれている労作であった。

小野寺少将は、大戦前、北欧駐在武官として、ヨーロッパ情勢を綿密に収集、分析し、日本に、多くの有益な情報を打電していた。
まだ、日本の外務大臣松岡洋右氏が、ヒットラー、ムッソリーニとスターリンを結んで、日独伊ソの四国同盟を形成することが可能だと思い、その樹立に奔走していた頃すでに、ドイツ軍の動きから独ソ開戦は必至と日本に打電し、対英米開戦は避けるように進言もしていたという。

開戦すなわち、英米中ソおよび日独伊以外の全世界を敵に回すことになるからである。
また、ドイツの「イギリス上陸作戦を準備中」という、日本に対するはったりにも、海岸線をつぶさに調査し、それだけの大作戦に間に合うほどの船舶の結集が見られないことから、虚偽である旨、打電したそうだ。
残念ながら、外務省を中心に枢軸外交一本槍であった日本ではこうした情報のすべてを握りつぶしてしまった。
岩畔が、米国で、日米諒解案の策定に奔走している頃のことである。

小野寺信少将の活動も、結局、多くの人には知られぬまま、戦後の長い月日が経ってしまったが、それを敢えて本として出版し、世に知らしめようとした百合子氏の心根はけっして他人事とも思えず、「バルト海のほとりにて」、一気に読んだことを今でも懐かしく思い出す。

戦後になって、大戦に関しては、「日本人はいかに愚かであったか」、「情報に疎かったか」、「軍事に弱かったか」、「合理的精神に欠如していたか」という論調は、これでもかと言うほどに繰り返し繰り返し喧伝されて来た。

ある意味、そう言ったり、書いたりする方々の、「自分はだけは違うぞ」という優越感も手伝ってか、「言った者勝ち」といった風情も感じられるほどに・・・。

でも、本当に、そうなのだろうか。

すべての人が、愚かだったのだろうか?
 すべての人が、一つの価値観に邁進したのだろうか?

けっして、そうではないだろう。

岩畔豪雄少将、小野寺信少将を始め、多くの人が、大向こうの喝采を受けようとするような気持ちのみじんもなく、人知れず、命をかけて、戦争を回避しようとしていたのに、戦後のある一定の思惑の中、それを知る人は意外に少ないようである。

私自身、存じあげない方も、きっと多いのではないだろうか。

かと思えば、見当違いの「国民的」高評価を得ている人もいるのだが・・・。

小野寺百合子氏は、戦後、スウェーデン・日本の文化交流にも尽力され、いっとき、テレビで人気をはくした「ムーミン」も氏が紹介したのが最初であったと聞く。

氏の終生の労作、「バルト海のほとりにて」の後書きから、その、一節を引用、紹介させていただく。

「最後に私は敢えて一言つけ加えたい。滔々たる時の流れには、一個の人間はどうにも抗し切れるものではない。一片の木片は波に押し流され水中に消え去ってしまうことが多い。だがその木片が正しいと信じて努力した行動の軌跡は、人には認められなかったとはいえ、正確に記録に止めておくことに或る意味があるのではないだろうか。本書は一木片の必死の行動を無視し流し去ってしまった時の流れに対するささやかな抗議でもあるのだ」 --「バルト海のほとりにて」 小野寺百合子

名もない「木片」の努力を評価しない世相は、将来「木片」たらんとする人々を無気力にするのではないかとも危惧する。

しかし、それでも、将来、同じような「時」が、再び、来た時、多くの「木片」が、人の評価など無関係に、人知れず、命をかけるのではないか。

そう期待したい。