私が、岩畔豪雄について調べているということを知っているさる方のご尽力を得て、ある紀州の山林地主にお会いしたことがある。紀州で広大な山林を所有されており、所謂、大地主という部類に入る人である。東京には美術館さえ所有されているという。
氏の父上が岩畔の部下、北部大佐に戦時中、大変、世話になったということで、北部大佐のことを綴った本を出版されている。お会いした時、すでにかなりの高齢に達しておられたが、まだまだかくしゃくとした面持ちで話もしっかりされていた。
お父上の関係で、戦後、岩畔豪雄にも、京都にある氏のお父上の邸宅でよく面会されていたという。
その邸宅には、旧軍人や政治家など、多数が出入りし、時事の問題や政治に関して談論風発といった感があったという。氏は岩畔について東京に赴くこともよくあったと言うが、当時の宰相、岸伸介でさえ、岩畔が声をかければ食事などにもひょこひょこ出てきていたという。

私の著書にも記したように、岸信介といえば松岡洋右の甥にあたるが、岩畔が満州で関東軍経済参謀を務めていた時、岸はまだ満州国国務院の役人をしており、岸がその後、小林一三を下して商工大臣のポストを撮ろうとした時も、岩畔は松岡に「陸軍の意向」のとりまとめを頼まれている。面会を求められて無下に出来なかったのであろう。
戦後の岩畔は、自衛隊創設に関わるよう吉田茂から依頼されても「敗軍の将、兵を語らずだ」と固辞し、哲学的な生活に没頭、世俗に関わるのをいさぎよしとしなかったようであるが、後輩に適切な教育したり、適切なアドバイスをすることにはこだわりはなかったようである。

地主氏との会談の最後に、私自身がその時点で不可解に思っていた疑問、「なぜ、戦後、岩畔豪雄は20年間ものあいだ定職にも就かず生活できたのか、ご存知ですが」を氏に問うたところ、氏はにっこり笑ってこう答えられた。
「それは簡単ですよ、私がお金を送っていました。そのほかにも多くの人たちが、岩畔さん、北部さんを始めとした中野学校関係の人たちが生活に困らないようにしていました。特に私は父から、生涯、岩畔さんや北部さんに生活の苦労をさせてはならないと言い遺されていました」

現在のフジサンケイグループの創始者で当時、財界四天王の一人でもあった、水野成夫が、「そのほかに資金援助していた人々」の一人であることを知ったのはその後のことである。

山林地主氏の会社は、戦後復興の建築ラッシュには、ビル建設用の木製の足場用材を大量に売り上げ、財をなしたというが、戦後の日本経済の驚異的復興に岩畔らに代表される戦前日本の知恵やバイタリティが大きな支えとなっていたのは間違いないように思われるのである。

地主氏と、ともに夕食をとり、再会を約してお別れしたのが、もう3年前の事である。
今でも、元気にされているだろうか。