1. 倉橋島から陸軍士官学校へ
―のどかな瀬戸内で育つ―
明治30年、広島県、倉橋島に岩畔豪雄は生まれた。
名字は珍しいが、倉橋島では名門であったという。
倉橋島は、昔から良質の花崗岩の産地として有名であり、国会議事堂外壁の桜御影もこの島の産である。
後年、日米交渉に特異な役割を果たすアメリカ神父ドラウトが、岩畔を「ロック・サイド」と呼んだように、文字通り岩のたもとを意味する名字がこの島の御影石と何か関係があるかどうかは定かでない。
しかし、かつて国会議事堂が建設された折、桜御影搬出の荷出し名義人は、当時の岩畔家の当主であったという。
「お上に納める物である以上、それ相応の名義人でなければならない」
岩畔の名前が出るまで県庁の役人は首を縦には振らなかったという。
やむを得ず、当主は船着き場に小屋を建てると、そこに1日中詰め、石材搬出のたびに署名捺印したというが、小屋にはタバコや雑貨品を置き、石切職人たちを相手に結構いい商売をしたというから商才にも長けていたようである。
倉橋島を本土と隔てるのが、平清盛が開削したという100メートルに満たない音戸ノ瀬戸であった。ポンポンと呼ばれる渡し船が唯一の交通手段だったが、大声で手を振って呼べば気軽に迎えに来てくれた。
のどかな瀬戸内で育った岩畔が、なぜ軍人を志すようになったのか私は知らない。しかし、彼の幼年時代において、軍隊というものが庶民の純粋な信頼と尊敬を勝ち得ていたことは紛れもない事実だった。特に日露戦争では、7歳の少年の心は戦勝気分にわく周囲の影響をたぶんに受けたことであろう。
倉橋島から西に広がるのが呉の港である。隣接する宇品とあわせると、東洋一の軍港地帯である。
大陸で一朝、事有るたび、呉からは戦闘艦が、宇品からは物資、兵員を満載した輸送船が、日の丸の小旗に見送られ、次々と出港して行った。
静かな島にも、20世紀初頭の世界の荒波は確実に押し寄せていた。
―陸軍将校を志願―
尋常小学校から中学へと進んだ岩畔は、陸軍幼年学校の募集に応募する。
陸軍幼年学校の募集は、中学2年から3年へ進級する時に各学校に回ってくる。入学に当たって、競争率30倍という選抜試験が行われたが、たとえ不合格の場合でもそのまま中学に留まればよいわけで、意志さえあれば、誰にでも道は開かれていた。
「優秀な資質をもった少年を将校として育てたい」
国家の意志がそこに表れていた。
幼年学校を出れば陸軍士官学校までは無試験で進学できる。それは陸軍士官への切符を手に入れるようなものだった。
岩畔は郷里に近い広島の幼年学校を志したが、試験の点数が足りなかったため名古屋に回された。この頃から、学科の勉強にさほど熱心ではなかった。
「慌て者で、臆病者の自分の性格が嫌いであった」と後年述懐しているように、自分の性格や資質に悩んだ少年期の岩畔は、学科の勉強より軍人としての資質を磨く方を優先した。(※1)
ある時はひたすら座禅に取り組み、またある時は難解な禅学の本や古今東西の英雄伝、偉人伝に読みふける、それが岩畔の少年時代だった。
幼年学校在学中も皆が寝静まると寄宿舎から抜け出し、校庭で1人座禅を組むということもあった。プルターク英雄伝や日本の武将伝なども、ただ漫然と読むだけではなく自分が同様の立場に立てばどう判断し、どう行動するかということまで考えながらの読書だったという。(※2)
最初は、意味の分からなかった禅学の本も、がむしゃらに読み進んでいけば次第に意味も分かるようになったという。こうして会得した学習の方法は、その後、彼が何か新しい事に取り組む時大きな力となり自信の源にもなった。後年、毎日上がってくる膨大な書類を苦もなく処理する能吏としての素養はこの時代から培われていたようである。
幼年学校で3年の教育期間を終えると、東京の中央幼年学校に移りそこで約2年間を過ごした後、陸軍士官学校へと進学することになる。
岩畔が中央幼年学校に進級した年、第一次大戦が勃発し、その終息は陸軍士官学校入学の年に重なっている。彼の進級と合わせるかのように、日本も世界という巨大な学校の中で、一種の進級をしなければならない時期にさしかかっていたようである。
この大戦で、日本は日英同盟を口実に対独参戦、ドイツ領青島(チンタオ)を占領するとともに中国の袁世凱政権に対して21ヵ条要求を突きつけ、西欧諸国がヨーロッパで血みどろの戦いを繰り広げている間に中国大陸への地歩を固めた。その結果、国際社会には、日本は美味しいところだけかすめ取っていく「火事場泥棒」であるというような見方も出てきた。西欧諸国にとって、日本はもはや国際社会における可愛い弟子ではなくなっていた。
一方、ヨーロッパで繰り広げられた、既成概念を覆す古今未曾有の壮絶な戦いは日本の政府や軍上層部を震撼させた。
「戦争のあり方は変わった」
軍隊と軍隊が戦えばいいだけの時代は終わりを告げ、国と国が生存をかけ死力を尽くして戦う総力戦時代が幕を開けた。時代に対応するためには、装備の近代化に止まらず、大規模戦に対する国家的な体制の整備が必要となった。
しかし、日露戦争以来、戦争を肌身に感じることのなかった日本の世論は、そうした世界の流れに無頓着であった。経費削減のため軍縮を求める声は強く、軍の装備近代化に対しても好意的ではなかった。軍人や幼年学校の生徒が制服を着て街に出ても、聞こえよがしに「税金泥棒」と言われたり、拍車の音がうるさいと文句を言われることも多かったという。
危機意識に基づいて急遽開かれた作戦資材整備会議も、本来、軍の装備を近代するために開かれたにもかかわらず、世間受けを狙った陸相・宇垣一成の手により、四個師団の削減という大規模な軍縮を打ち出してしまう有様だった。世に言う「宇垣軍縮」である。
その結果生じた宇垣に対する多くの陸軍将校たちの怨念は、後に陸軍部内に大きなねじれ現象を引き起こす。