私がこの本を書いた真の理由
祖母が亡くなってもう3年になる。
享年96歳であった。
郷里の広島で行われた葬儀には老若男女、多くの親戚が寄り集い、その多くは私にとって初めて会う人ばかりだった。既に密葬を済ませて日も経ち、老衰で天寿を全うしたこともあり、葬儀といっても悲壮感はそれほど漂っていなかった。
法要が終わった後の食事の席は、それぞれの家の近況を話し合ったり、お互いの変貌ぶりや、その道に昔と全く変わっていないことに驚きあったり懐かしがったりといった光景がそこかしこで繰り広げられ、久しぶりに出会った親族たちの和やかな語らいの場となっていた。
時の流れを越えた人と人のつながり、拭い去ることのできない血のつながりを改めて実感するような一時であり、私も歳を取ったせいであろうか、そうした場の雰囲気に言い知れない心の安らぎを感じていた。
倉橋島出身の祖母は、その旧姓を岩畔という。
岩畔豪雄とは、彼の母と祖母の祖父が兄妹という関係であった。
たまたま私の隣に亡くなった祖母の姪がいたこともあり、私の父も加わって、話は祖母の実家、岩畔家のこと、そして岩畔豪雄へと移っていった。
私がまだ学生であった時に『開戦前夜』を読んで感じた失望は、彼らには全く無縁だった。
祖母の姪は彼が日米交渉に携わった事など全く知らなかったし、『開戦前夜』という本のことなど、その存在さえ知らなかった。
私に岩畔豪雄や『開戦前夜』の事を教えてくれたのは父だったが、父もそれほどこだわってはいないのが不思議だった。
「『開戦前夜』を読んで悔しく思わなかった?」
私の質問に対する答えも「そりゃあ、人はいろいろ言うよ」の一言だった。世間がかりそめに流す言説を気にするつもりは父には毛頭ないようである。確かに、父や祖母の生きてきた日本の近代は有為転変の時代であった。
かつて米屋を営んでいた橋本家は、「米騒動」の時は激昂した大衆の略奪を受けたそうである。米俵は刃物で切り裂かれ道路にぶちまけられたという。岩畔がシベリアに出征した年のことである。
かつて、遠く壱岐対馬にも荒波を乗り越えて米や生活物資を運んだ橋本家だったが、その後米屋を廃業してしまった。
「何もしていないのに、悪いことをしているように言われて酷い目に遭う、こんな割に合わない商売は無い」
その時の曾祖父の言葉である。
米や生活必需品を待ちわびる島民のため、荒天をついて船を出し、対馬沖で遭難した先々代の畠山三兵衛も草葉の陰でさぞかし嘆いたことであろう。
橋本家は4代前まで畠山を号していた。橋本は生業の米屋の屋号だった。
ところで、畠山家であるが、これは鎌倉時代の御家人の桓武平氏・畠山重忠に発しているという。
有力な御家人であった重忠は、執権北条氏の奸計により息子を鎌倉で捕殺されるや、寡兵をもって鎌倉に向かい攻め上り、二俣川の合戦で討ち死にしている。そ の時1人の息子が落ちのび、たまたま常陸の国に布教に来ていた親鷲上人のもとに身を寄せたというのが畠山家の始まりだという。
息子を謀殺されたとなれば、たとえ相手が執権といえど直ちに挙兵した畠山重忠であるが、古来、日本人とはそうした民族だった。
幕府といえど、所詮、時の政権に過ぎない。
組織に縛られ正しいと思ったことも言えなくなったのは儒教道徳がもてはやされた徳川時代からだとされ、戦陣訓を戦意高揚のための古めかしい道徳教本にしてしまった東条英機や参謀本部の幕僚たちにみごとに結実している。
盛時には、日本各地に米や広島名産の牡蛎を出荷し、牡蛎料理の店も各地に出していった橋本家だったが、門司にあった店の同じ町内には、本書にも記した三月事件、十月事件の張本人、橋本欣五郎の実家もあったという。文字通り昭和陸軍陰謀史の重要な登場人物であるが、大政翼賛会から選挙に出た時はにこにこしながら挨拶に訪れたという。念のため断っておくが、同じ橋本姓でも彼と我が家の間に縁戚関係は一切ない。
父が中学を卒業した時の、今で言うところの「卒業旅行」は、鮮満旅行といって朝鮮から満州を回るものだったという。
この時、父は祖父から初めてカメラを買ってもらったそうである。
その帰路、大連から下関へ向かうウスリー丸では、たまたま乗り合わせた当時の満鉄総裁の松岡洋右が父のグループを自分の船室に呼び、とうとうと訓辞を垂れるという一幕もあったという。
一万言就寝居士というのはまさに本当で、折からの荒天下、船酔いに苦しむ学生などそっちのけの長口舌が続いたという。
「よーっ、喋りんさる」
父のその時の感想である。
戦後になっても、橋本家の受難は終わらなかった。
小賢しい財テクを嫌った祖父は、ほとんどの資産を銀行預金としており、戦後の預金封鎖の煽(あお)りをもろに食らうことになった。橋本家は文字通りの窮乏生活に陥ってしまった。
学徒動員で徴兵され、呉で小型モーターボートによる特攻訓練に明け暮れていた父が熊本第五高等学校に戻ってきた時には仕送りも途絶え、父は空き腹を抱えた学生生活を余儀なくされたという。
正邪も価値観もー夜にして覆される激動の昭和を生きた父にとって、活字となってまことしやかに流される言説もそれを鵜呑みにすることはできないようである。
かつて祖母が存命中、父や私によく語った話がある。
幼年学校や陸軍士官学校在学中の岩畔豪雄は、夏になって倉橋島に帰省してくると、幼かった祖母や親戚の子供たちをつれてよく泳ぎに行ったそうだ。
そんな時、彼はどんなに厳しい暑さの中でも決して自分自身が海に入ることはなかったという。監視が行き届かなることを恐れたようである。時間を測っては子供たちを浜に上げ、休憩をとらせる事も忘れなかった。
じりじりと照りつける陽射しの中、子供たちをじっと見守り続ける岩畔豪雄の姿を、祖母は子供心に「偉いなー」と感心していたというのである。
岩畔豪雄の関わった日米交渉のことなど全く知らなかった祖母だったが、亡くなる直前まで惚けることも無く、周囲に気配りをし、矍鑠(かくしゃく)としていた彼女だったから、子供の頃から人をそれだけの目で評価していたとしても、決して不思議はなかった。
私が、岩畔のことを調べてみようと思ったのは、この話が心の奥に引っかかっていたからである。
さらに、この本を書くにはもう1つのきっかけがあった。
―エイズ薬害禍―
エイズが世に知られ始めたのは1981年のことである。
当初ホモセクシャルに特有の原因不明の病気とされていたが、やがて血友病患者にも同様の症状を呈する者が散発していることがアメリカでわかり、大きな波紋を呼んだ。
当時、エイズは感染症であることもまだ確認されていなかったが、発病した血友病患者の共通項として血液製剤がスポットライトを浴びることになり、1983 年の時点で、血液製剤をエイズ発症の危険因子としてその使用を中止するべきではないかという論文も、アメリカでは出されている。
そうした状況を受けて日本でも厚生省を中心とした対策会議が発足しているが、危険が少ないと指摘されていた国産の血液製剤への切り替えも行われないまま、結論はずるずると先延ばしされた。
その後の展開はご承知のとおりで、多くの人々がエイズに感染するという最悪の結果を招いてしまった。
すべては「トゥー・レイト」であった。
厚生省やその諮問を受ける立場の医師だけではない、多くの医者が危険を承知したまま権威の見解に従った。
やはり、情報というものは真にそれを求める者でなければ目の前にあっても見えないようだ。
すべてが後手後手にまわったエイズ薬害禍であるが、日米交渉の挫折と以下の諸点で相似形を呈している。
- @
- 正規の手続きを踏んでなされた国家的規模の過ちであるという点。
- A
- 施策が間違った方向へと進路をとるにあたって特異なキャラクターのキーマンが介在しているという点。
- B
- キーマンの倣慢さが政府機関の意志決定を制度的にも心理的にも席巻しているという点。
- C
- 過ちが明らかになるに従って徹底的な隠蔽工作がなされたという点。
その後の報道では、当時、キーマンの意向に反対し、被害を最小限に食い止めようとする意見も出ていたというが、キーマンの意向はいつのまにか組織の意向として機能し、いかにも日本的な会議運営のもと、結局、取り上げられることはなかったという。
「反対しない方が身のためだ」というような恫喝も飛び出したというから、日本は、戦後も、ちっとも進歩していない。
エイズ薬害問題だけではない。
その頃から新聞紙上を賑わすようになった証券不祥事にしろ、銀行や住専の破綻にしろ、どれをとっても同様な問題が根に巣くっている。予想できた危機を全く避けようとしていない。
すべては「トゥー・レイト」だった。事実、その間、アメリカからは何度も半世紀前とまったく同じ「トゥー・レイト」の言葉が飛び出している。
日本は、戦後も全く進歩していなかった。
思うに、戦後の日本は、野村や岩畔、井川とともに、危機を回避する英知や勇気までも葬り去ってしまったのではないだろうか。
そんな気持ちが私にこの本を書かせた。
素人ながら、こうして、多くの歴史の本を読み、自分でも思索を加えながら岩畔豪雄の生涯を調べて思ったことは、一言で歴史の真相を掴むと言っても、それが実際はいかに困難かということであった。
1つの事柄に関しても、さまざまのコメントや証言が存在し、取り上げる人によってその評価は天と地ほどに異なるのが実状であった。
真実は往々にして薮の中ということも少なくなかった。
この本の中心となる日米交渉の展開に関しては、岩畔豪雄の書いた『私が参加した日米交渉』と『岩畔豪雄氏談話速記録』(木戸日記研究会編)を基としていることをここで明らかにしておきたい。
事実に関して客観性を失わないようにできるだけの注意はしたつもりであるが、私にこの本を書かせたものが祖母から聞いた岩畔と「謀略」を弄して太平洋戦争 を引き起こしたかのごとく語られる岩畔との距離があまりにかけ離れていることに対する義憤であったことは、否定できない事実として付け加えておきたい。
言葉を換えれば、この書を書くにあたって、公平であるべく極力努めてはいるが、自分の血に対する執着からは自由であり得なかったということだけは明らかにしておきたい。
歴史学者は、岩畔らの交渉を変則的であったと言って否定したが、すべてが変則的な時、変則的に行動する以外に道があったのだろうか。
戦後、岩畔が何を思って哲学の研究に没頭したのか、それは定かではない。
彼の経歴は、昭和40年に京都産業大学理事として世界問題研究所長に就任するまで戦後20年の長きにわたって空白である。
「日本は物量だけでなしに哲学に於いてもアメリカに最初から負けていたのではないか」といった思いが彼の哲学への情熱をかき立てたと伝えられている。
しかし、それだけでは彼の経歴の戦後20年にわたる空白はとても説明できないようにも思える。
やむを得なかったとは言え、自分自身が回避に失敗した大戦で多くの人々が亡くなったことに責任を感じていたのかもしれない。
晩年、岩畔は、我流に過ぎないかもしれないと悩みながら、「発表するべきだという衝動が自分の中には渦巻いており自分はこの衝動を制し得ない状態に陥っている」と、多くの哲学論文を書き上げた。
私が、この本を書いたのも岩畔と同じである。発表するべきだという衝動が渦巻いてその衝動を制し得なかったからである。 血に対する執着なしに一族の記憶も民族の歴史も次代には引き継がれない。
夏の瀬戸内海で、肌を焦がす太陽の下、身じろぎもせず子供たちを見守り続けた少年は、終生変わることなく岩畔の中に生き続けていた。