1.戦後における日米交渉の評価
―歴史の記述から抹殺―
こうして見てきた「日米交渉」の顛末であるが、日米開戦に先立って、このような経緯があったことを知る人は少ない。
筆者の周囲では、マスコミ関係や、近現代史に一家言ある人々をも含めて皆無である。
太平洋戦争を回避しようという意志と努力が日本にあり、一時的にしろそれを可能とする風が吹いたという事実は、そのチャンスと努力を虚しくしたものが松岡洋右を代表とする「日本の外交」そのものであったという事実とともに、忘却の彼方に消えてしまったようである。
戦前、日本の多くの指導者たちに厳しくその責任を問うた東京裁判を見ても明らかなように、日本人の「再教育」に躍起となった占領軍支配のもと、戦前日本の善意や良識を語ることは一種のタブーとなった。
ファシズム退治の聖戦と大戦を位置づけたい連合国にとって、戦前の日本は世界征服を企んだ悪の帝国でなければならなかった。
教科書に黒々と墨が塗られたように、野村や岩畔、井川の努力や、あの時ワシントンで起こったことは歴史の記述から消去されていった。
墨を塗っていったのは連合国だけではなかった。
日米諒解案の成立を阻んだ外務官僚たちは、戦後も日米交渉の否定に躍起となり、純粋に太平洋の平和を願った岩畔、ドラウトらが心血を注いだ日米諒解案は、いつしか謀略文書とさえ呼ばれるようになった。彼らが指摘する、日米諒解案の問題点は以下の2つに収束される。
一、ハルが交渉の前提として提示した4条件が報告されていなかった
二、諒解案がアメリカの提案であるかのように偽った。
これに加えて、
「諒解案は岩畔の全くのでっち上げだった」
「アメリカも日米諒解案の内容には失望していた」
「岩畔、井川、ドラウトは自分の願望を現実と思い違いするような人間たちだった」
「岩畔は3国同盟締結にも奔走した謀略家だった」
「ああした形で交渉を始めたのが日米開戦に結びついた」
といったさまざまな非難が加わる。
こうした非難は、やがて以下の2点に要約されていった。
- @
- 松岡の反対がなくても日本もアメリカも原則を曲げることはできず、日米諒解案はとうていまとまらなかった。従って、松岡や外務省に開戦に対する責任はない。
- A
- 野村、岩畔らの変則的外交が日米関係をこじらせ戦争に結びついた。
さらに、@には、ハルやアメリカ国務省担当者が交渉当時、あるいは戦後になって記した日米諒解案に対する批判や失望を含んだ感想が傍証として提示され、Aは松岡がスタインハート工作を準備し対米工作に乗り出すつもりがあったことを根拠としている。
こうした主張の真偽はひとまず置いて、戦後の日本で日米交渉がどう評価されてきたかを検証してみたい。
結論から述べると、戦後の日本では、日米交渉に対する評価はおろか一般的な認識さえ皆無と言っていい。
事実、一般人を対象とした書物で日米交渉の経緯を記したものはほとんどない。大戦を扱った書籍が溢れるほどに出版されていることを考えると奇異と言わざるを得ない。
戦争を放棄し、すべての国際紛争を外交交渉によって解決しようと決意した日本人こそ、いかなる外交を展開して日本が戦争に突入していったかを知らなければならない筈である。
数少ない日米交渉を記した書物から、日米交渉が戦後の日本でどのように評価されてきたかを辿ってみたい。
なお、ここでは歴史の専門家しか目にしえないような本は除外した。
―岩波新書『昭和史』―
遠山茂樹、今井清一、藤原彰らの共著である。
唯一、「日米交渉」に関して、客観的な記述がなされている書物であろう。情緒に流されていないという点で貴重な本と言えよう。
少し長くなるが、日米交渉に関する記述を抜き出してみる。
41 (昭和16)年に入ると、日米両国間に国交調整の気運が動きはじめた。同年春からワシントンで、新任の駐米大使野村吉三郎とアメリカの国務長官ハルとの間 で、両国間の対立問題を解決するための日米交渉がはじまったのである。この交渉はそれに先立って民間の下工作が行われていた。アメリカ政府と連絡のある牧 師ドラウトおよびウォルシュと、近衛首相と連絡していた民間人井川忠雄、それに陸軍省軍事課長岩畔豪雄大佐の間で、同年はじめから秘密裡に会談が行われ、 交渉の試案が作られていた。
4月16日、野村大使とハル長官の会談で、従来民間交渉で行われていた話し合いを両者の会談にうつし、そこでつくられていた交渉試案、いわゆる日米諒解 案を交渉の基礎とすることにまとまり、アメリカ側はまずこの諒解案についての日本政府の訓令をうることを求めた。
交渉の出発点となった日米諒解案は、日中間の協定による日本軍の中国本土からの撤退、中国の満州国承認、蒋・汪両政権の合流、日中間の防共共同防衛など を条件として、アメリカによる日中間の和平の斡旋、日米間の通商および金融の提携、日本が南方の資源を獲得することへのアメリカの協力、太平洋の政治的安 定などを約そうとするもので、このための日米正式会談をルーズベルトと近衛首相との間で開こうというのであった。アメリカ政府は、この諒解案をそのまま承 認しているわけではなく、ハルは同時に「すべての国の領土と主権の尊重、内政不干渉、すべての国の平等の原則の尊重、太平洋の現状維持」という4原則を提 示していた。しかしともかくこの諒解案は日本にとって有利な内容のものであった。(中略)この諒解案にたいして、はじめは政府も軍部も原則的な賛意を表し ていた。ところが松岡は、留守中に外相の手をへずに日米交渉がはじめられていたことに反撥し、日米諒解案は独伊にたいする信義にもとるものだとして強硬に 反対した。
近衛首相も軍部もこの強硬論にひきずられた。日本外交の基調が3国同盟にあることは不動の国策だとの大義名分論にたいして、正面から反駁する論理をもっ ていなかったからであった。そして5月3日にアメリカにたいする回答として決定した日本案は、3国同盟の義務を強調し、このため日米戦争もありうることを 匂わし、武力進出をおこなわないとの条項をけずること、日中戦争の和平条件は「近衛声明」の3原則にもとづくもので、アメリカの斡旋を蒋介石が受諾せぬ時 は米国は蒋政権への援助を中止すること等の条件をもりこんだもので、およそ交渉の基礎とはなりえないような強硬案であった。しかも松岡は、この回答をアメ リカに送るのに先立って事前に独伊に通告した。
日本を太平洋戦争に追いやったのが、単に日本の軍国主義だけでなく松岡らの強弁する「日本外交の基調」とそれに反対できなかった近衛の弱腰であったことが淡々と論じられている。