日本の命運を賭けて奔走した男がいた
惨禍を極めた太平洋戦争が終わり、既に半世紀以上の年月が経過した。
20世紀も終わりに近づいた今日、戦争を直接経験した人は少なくなってきたものの、日本人の心はあの戦争の呪縛から未だ解き放たれてはいない。
戦争によって失ったものの大きさを考えればそれも無理はないが、日本人の特質であろうか、傷跡の痛みは半世紀にわたって「戦前の日本」に対する嫌悪を深め ただけで、具体的にあの状況でどうするべきだったか、いかにすれば戦争を避け得たかというような具体的な問題には向かっていかなかった。
過剰な悔恨、反省、自己嫌悪に苛み続けられた反動なのか、近年になると過去をいたずらに美化、正当化しようとする言論さえ誘発するようになった。
しかし、「嫌悪」も「美化」も決して英知の源とは成り得ない。まして、「無関心」であるならば尚更だ。
戦争を「悪」とし、国家間のすべての問題は外交によって解決されなければならないとするならば、かっての日本がいかなる外交を展開し、戦争への道を突き進んだかを理解しようとしないのは極めて不合理と言えよう。
過去の教訓に学ぶということに歴史の最大の意義が有るとするならば、開戦に至る道程を知ることは、日本の悪業を発掘することに劣らず大事なことではなかろうか。
井川忠雄。
昭和16年の春、ワシントンで日本の命運を賭けて奔走した彼らの名前を知る者が読者の中に何人おられるであろうか。
辛うじて駐米大使、野村吉三郎の名前を知っている人は多いだろうが、彼が何をしたかと訊かれたら、宣戦布告文書をアメリカに手渡した時、既に真珠湾奇襲が始まっていたという有名なエピソードぐらいではないだろうか。
そこに至るまで、彼がアメリカとの間にどのような交渉を展開したか、彼がどのような思いで交渉を続けたかを知っている人がどれだけいるであろうか。
「日米交渉」の実態は、実に興味深い内容であるにもかかわらず、なぜかこれまで一般の人々の間で語られることはほとんどなかった。
後に述べる児島襄著『開戦前夜』が唯一と言っていい例外だが、この本もまた偏った価値判断に立ち、先人が命懸けで行った平和への努力を意図的に「謀略じみたもの」として卑小化してしまったという意味で、その罪は大きいと言わざるを得まい。
駐米大使・野村吉三郎とその協力者となった元陸軍省軍事課長・岩畔豪雄大佐、元産業中央金庫理事・井川忠夫らによってワシントンで日本の命運を賭けて行われた「神父工作」の顛末をこれから綴っていきたい。
後述するように、彼らの交渉内容は後にさまざまの非難にさらされる。非難の大部分は、交渉の進展を阻害した外務官僚たちと、陸軍の一部幕僚たちであった。
読者には、彼らの非難が的を射たものであるかどうか事実をよく読んだ上で判定していただきたい。
以後、かなりのページを岩畔大佐の生い立ちから日米交渉参画までの経緯に費やしている。それは、交渉の中心的役割を果たした岩畔大佐の人物像を理解することなしには日米交渉の本質は理解できないと判断したからである。
交渉の相手アメリカ国務長官ハルは、後年、「岩畔大佐は日本陸軍の美徳と欠点を併せ持っていた」と評したという。
日本陸軍にあって岩畔はきわめて出色の人物であった。
ハルが、何を持って美徳と言い、また、何を持って欠点と言ったのか、読者にご判断の資料を提供したいと考えている。