1.悪化する一方の日米関係
―日本への風当たり―
日米関係悪化の端緒は、大正10年ワシントン軍縮会議に遡る。
第一次世界大戦後の混乱した世界に新たな秩序を築きあげるために開かれた会議だったが、アメリカはこの会議を利用して、アジアに台頭し始めた日本に国際的枠組みという名前のくびきをはめた。
会議の決定は日本にとって不満の残るものだったが、国際社会の一員としてそれに従おうとする分別を日本は持っていた。
しかし、国際社会の新参者、日本に世界の風は決して暖かくはなかった。
大正13年、カリフォルニアで「排日移民法」が成立する。それは、政治にさほどの関心を持たない一般の日本人でさえ身を震わせるほどの屈辱を感じざるを得 ない露骨な人種差別だった。右翼や若手の将校の間に、極端な国粋主義思想が蔓延するようになったとしても不思議はなかった。
昭和6年、満州事変が勃発。
日本が瞬く間に大陸に新国家を打ち建てると欧米諸国は驚愕した。アメリカは直ちに大陸に起こった変化の一切を承認しないとするスチムソンドクトリンを打ち出してこれに応えた。
こうして太平洋を挟んだ日米間に不穏な空気が流れる中、昭和12年、日華事変(日中戦争)が勃発し、米国は欧米諸国と共に蒋介石政権に物心両面の援助を行った。
こうして、日々険悪さを増す日米関係は、昭和15年、近衛内閣のもと日独伊3国同盟が締結されるや最悪のものになった。
岩畔の表現を借りるならば、
「慢性的険悪状態から急性的危篤状態」
へと移行した。
当時、破竹の進撃を果たしたヒトラー率いるナチスドイツが、既に、欧州の全域をその支配下においており、この歴史的とも言える新事態にどう対応するか、アメリカも正念場を迎えていた。
アメリカはABCD包囲陣により対日輸出を厳しく制限し、資源輸入国である日本の頚(くび)を締め上げ、それに呼応して日本に於ける反米思想もいよいよの高まりを見せていた。
「バスに乗り遅れるな」
誰言うとなくそんな言葉が流行り始めた。ドイツと組んで武力をもって欧米諸国に一泡ふかせてやろうというのである。