イワクロ.com〜かくして日米は戦争に突入した〜

目次

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  • まえがき
  • プロローグ
  • 第一章
  • 第二章
  • 第三章
    • ワシントンに着任して
    • 「諒解案」に策定に着手
    • これがその主要内容
    • 表舞台に躍り出た『諒解案』
    • 【第三章】参考引用文献
  • 第四章
  • 第五章
  • あとがき
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第三章「日米了解案の全貌」

1.ワシントンに着任して

―初出勤―

 昭和16年4月1日、岩畔豪雄はワシントン日本大使館に、井川とともにその姿を現した。
 野村大使は、早速、大使館のスタッフを集めて岩畔を紹介した。
 岩畔を迎えた大使館職員らの心境が、複雑なものであったことは想像に難くない。
 東条に疎まれてワシントンに派遣された、などという裏情報が彼らの耳に入っていたかどうかは別として、陸軍省で軍事課長という要職にあり、「やり手」の名を欲しいままにしてきた岩畔大佐の出現は、大使館のスタッフにとって薄気味悪いものであったことは間違いない。
 外務省本省から、井川と岩畔の行動を監視しその動きを牽制するようにという指令が出ていたであろうことも想像に難くない。 事実、ワシントンに滞在していた海軍駐在武官の横山一郎大佐は、海軍省からそうした趣旨の指示を受けている。(※1)
 外務省職員らの複雑な心境をよそに、岩畔の着任を心底喜んだ者が2人いた。
 1人は、もちろん井川である。
 日米戦回避という大望を持って渡米したものの、大使館職員の冷たい視線の中、井川はほとんど立ち往生の状態だった。
 電報の発信さえ拒否され、かくなる事も有るかと渡米前に準備したニューヨーク財務官事務局を通じての連絡ルートも、外相松岡が閣議で問題化して絶たれようとしていた。
 井川にとって、岩畔の到着はまさに何万人もの援軍を得たようなものであった。

―野村大使の孤独―

 もう1人、岩畔の来着を喜んだ者がいた。
 駐米大使・野村吉三郎である。
 大使館で孤独な思いをしていたのは、井川1人ではなかった。大使館の主である野村自身、思い通りの活動ができないで苦しんでいた。
 外交経験のない野村にとって、それを補佐する経験豊かなスタッフが絶対に必要であった。
 しかし、この時のアメリカ大使館員たちは野村にとって決して良い補佐役ではなかった。
 天皇から対米関係の打開を厳命されて渡米してきた野村に対し、なぜ大使館員たちがかくも非協力的であったか。それは外相松岡の方針が原因だった。
 三顧の礼で迎えた野村だったが、3国同盟と日ソ不可侵条約をもってアメリカに対して恫喝外交を展開しようとしていた松岡にとって、野村は日独伊ソの4ヵ国同盟を固めるまでの時間稼ぎに過ぎなかった。
 松岡自身がデザインした3国同盟は、決して3ヵ国の同盟に留まるものではなかった。ソ連を加えた四ヵ国のスクラムで、アメリカを大陸からシャットアウトしてしまおうというのだ。
 松岡にとって、ヨーロッパから極東にまたがる4ヵ国がまとまれば、アメリカはもはや問題ではなかった。
 若年期をアメリカで過ごした松岡は、アメリカに対する歪んだコンプレックスと、アメリカ人は下手(したで)に出ればつけあがるという固定観念をもっていた。
 人気のある野村を駐米大使に仕立てたのも、米国との国交修復を一日千秋の思いで待ち焦がれる昭和天皇や世論の矛先をしばらくの間かわすために過ぎなかった。
 こういう訳で、松岡や大使館員たちにとって野村はていの良いお飾りで、実際にアメリカで彼にしてもらう仕事などはなかった。
 しかし、野村としては漫然と席を暖めているわけにはいかなかった。天皇から直々に対米外交の打開を命じられて来たのである。
 着任した野村は、まず外交の手始めとして国務長官ハルと個人的なつながりを確立したいと考えた。しかし、かつてアメリカ駐在武官を勤めていた野村の人脈は軍関係に偏っており、なかなかハルには届かなかった。肝心の大使館員たちも何の力にもならなかった。
 着任早々、壁にぶつかった野村に救いの手を差し伸べたのは、なんとアメリカにやって来たばかりの井川だった。
 井川は野村の希望を聞くと、直ちにドラウトを通じてウォーカー郵政長官に働きかけ、野村とハルの秘密会談を斡旋した。
 大統領の側近であるウォーカーにとって、野村とハルの会談を斡旋するぐらいはいとも簡単なことだった。
 しかし、会談はかなり変わった趣向のものになった。

―夜這い―

  「指定の時間、午後7時に、カールトンホテル(ワードマン・パークホテルに移るまでハルはここを居宅にしていた)の裏口から、非常階段を使って部屋まで来て欲しい。鍵はかかっていないからノックなしに入ってもらって結構」
 それは、とても日本を代表する全権大使とアメリカ国務長官の会見とは思えない舞台設定であった。
 野村はスタッフを集めると、この奇妙な申し出に応じるか否かを諮問した。
 「一国の大使ともあろう者が、夜盗か夜這いに類する方法で会見することは適当ではない」
 「国務長官がこのような方法で会見することは常識的にいってもあり得ない。大使が井川君の言葉を信じて軽率な行動をとれば、ワシントン外交界の笑い者になるであろう」
 大使館スタッフたちは、こぞって反対した。
 しかし、野村としては簡単に引くわけにはいかなかった。天皇から直々に日米国交修復の任を託されている、しかも、これまでめぼしい成果もなかった。
 「駄目でもともと」
 野村はその奇妙な指示を受け入れた。
 しかし、鍵のかかっていないドアを恐る恐る開けた野村を待っていたのは、紛れもなくアメリカ国務長官ハル、その人であった。
 野村は、夜陰を抜けて、「日米国交修復」の第1歩を踏み出した。それ以来、野村の井川への信頼は確固たるものになった。
 この奇妙な経験が野村に与えた印象は強烈であったろう。
 「日米関係はもはや、型通り、通常の外交では打開できないところまで来ている」
 野村ならずとも誰しもそう思ったであろう。彼や岩畔、井川らが踏み込んでいく変則的外交の幕は、この晩、切って落とされたと言っていい。
 しかし、一方、鼻をあかされた大使館員たちは、井川いじめに拍車をかけた。
 日本へ宛てた電報は打電さえ断られ、井川は、かねて準備したニューヨーク財務官事務所を経由しての連絡ルートに頼らざるを得なくなった。
 しかし、そのルートが外務省に察知されるのも時間の問題だった。松岡外相は、私人である井川が大蔵省の公電を使用していることを閣議で問題とした。
 かくして、外務省は対米外交そっちのけで井川潰しに熱中した。
 日本大使館が真の「外交」の拠点となるためには、岩畔の米国到着を待たなければならなかったのである。

―悠長な話―

 「本格的日米交渉は、今後5、6ヵ月間の事態推移を見た上で開始しましょう」
 着任早々、岩畔が聞いた若杉公使のこの言葉は、この期に及んでも外務官僚たちが現状に対して全く危機感を持っていないことを如実に物語っている。
 「なんと悠長なことを」
 岩畔は呆れ返った。
 ABCD包囲陣により戦略物資の輸入を絞られた日本では、石油をはじめとした戦略物資の備蓄が日々確実に減少していた。
 「このままでは、今に、艦隊も動かせなくなる」
 そんな心配がまことしやかに囁かれ、軍部は水面下で南方資源地帯への進出を計画していた。
 「必要はすべてを正当化する」
 日本にとってそれはもはや是非の問題ではなくなっていた。
 いかなる事態にも即応するのが軍人の本分である以上、それは当然のことでもあった。
 しかし、日本が資源を求めて南下すれば事態はさらに悪化する。何故なら、それはアメリカが自他共に認めるアジアに於ける唯一の聖域、フィリピンを脅かすことになるからである。
 既に、時の経過こそが日本にとって最大の敵となっていた。ドウマンと同様、若杉もそうした認識は全く欠如していた。

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