3.青年将校時代
―山篭もり―
スパスカヤでの戦闘の半年後、シベリアから帰国した岩畔は、早速、スパスカヤでの武勲を讃えられ金鵄勲章を授与された。 神武東征の折、天皇の手にした弓に舞い降り、進むべき道を示したといわれる金色の鳶にちなむこの勲章は、戦場での武功群を抜いた者に与えられることになっていた。
しかし、こうして武勲を讃えられた岩畔だったが、何を思ったのか司令官に長期休暇を願い出た。郷里広島の禅寺、仏通寺に籠って禅の修行をしたいというのである。
シベリアでの戦闘中、
「自分の心は部下の前で恥ずかしい行動をとるまい、ということのみに占められ『対敵意識』が欠けていた。まだ自分には修行が足りない」
というのがその理由だった。
敵装甲列車から銃弾が雨霰と降る中で、敵の貨車から大砲を引き降ろし、それを逆用しての砲撃である。誰にでもできる芸当ではなく、普通の者なら自慢こそすれ、自分のその時の心理状態まで反省する者はいない。
上官も意外に思ったことだろうが、金鵄勲章を授与されたことに対する褒美の意味もあったのであろう、休暇願は受理され、岩畔の40日間の山篭もり修行が始まった。
―自ら「三無」と号す―
それは岩畔が少年時代から続けて来た禅修行の総決算となった。 しかし、40日後、山を下った彼は意外な結論を出す。
その結論はなんと、
「自分は禅によって悟りを得られる人間ではない」
というものであった。
何故、彼がそうした結論に達したのかは定かではないが、その後の彼の言動からある程度は推定できる。その後の岩畔は、禅が目指す境地だけはそのまま自己の目標として堅持し、それを自分独自の修行法によって追求していったという。
具体的には、物欲を去るためと称して当座の生活に必要な物だけ残してあとの私物はすべて友人知人に気前よく分け与えてしまったり、容易に精神の集中と転換を行うためと称し、同時に2人を相手に将棋と碁を指したりするなど、奇抜な修行法を考案しそれをもって「俗禅」と称したという。(※4)
己を空しくし、心の集中と転換を瞬時に、しかも意のままに行うことは、葉隠を読むまでもなく、武人にとっては基本的な徳目である。一瞬の躊躇や逡巡が戦場では命取りとなる。 戦国武将に連歌や茶道をたしなむ者が多かったのも、戦場での意識の膠着(こうちゃく)を免れるためであったという。岩畔の発想は決して奇抜なものではなかった。
「一事に囚われない」
「融通無碍」
これらこそ、後に、日米交渉で発揮される岩畔の資質であった。
形骸化し儀式部分の多い禅は、自己の錬磨に主眼を置いた岩畔にとって、まだるっこしいものだったのかもしれない。
長年続けた禅の修行でさえ、それを不合理と感じると方向転換を厭わぬ岩畔の性格がこのエピソードにはよく現れている。
その後、岩畔は自らを「三無」と号している。
「生惜しむ無く」
「財求むる無く」
「名追う無し」
―陸軍大学校へ―
大正11年6月、シベリア事変にピリオドが打たれ、出征していた兵たちは続々と帰還してきた。
一方、岩畔は仏通寺での修行を終えた後、1年足らずの台湾勤務をはさんで、翌年、大正11年の12月、陸軍大学校へ進学した。
陸軍大学校に関して簡単に説明を加えておきたい。
陸軍士官学校卒業生は、まず全国の各連隊に配属されることになるが、ここから先、道は2つに分かれる。1つは、試験を受けて陸軍に於ける最高学府・陸軍大学校へ進学する道であり、もう1つは、連隊に留まりそこで一生を部隊指揮に当たるというものであった。
陸軍大学校は、文字通り陸軍幹部を養成するために設立された学校である。
卒業生は参謀本部、陸軍省といった陸軍中央官衙(かんが)(※5)を中心として活躍することになる。
その入試は難関中の難関と言われた。(※6)
陸大受験には一定の資格があった。
まず第一が、隊付将校として2年以上の隊務経験があるということであるが、階級に上限が設けられており、陸大を受験するためには、その階級は中尉まででなければならなかった。大尉になると受験資格は失われるのである。前途ある若手を幹部候補生として養成したいということである。
卒業時に与えられるバッジが天保銭に似ているところから、陸大卒業生を天保銭組、そうでない者は無天組と呼ばれた。
エリートとして出世街道を驀進(ばくしん)する天保銭組に比較して、無天組は気楽ではあったが、出世に恵まれず、一生、地味な連隊生活をおくるのが通例だった。こうした構図は、現代の中央官庁に於けるキャリア組とノンキャリア組の関係と同じである。
部隊の中に陸大受験を志望する将校がいる場合、所属連隊の連隊長は推薦状を書くのが通例だったが、陸大を出ていない無天組の連隊長の場合「いくらかの嫉妬も手伝って、あえて受験志望者の推薦を断って、受験のための面倒を見るようなことをしない者もいた」という。また、それとは逆に若手将校の中には若者らしい純粋な発想から己の栄達をはかるための陸大進学を私事としてとらえ、進学のための勉強自体を潔しとしない風潮もあったという。(※7)
―軍縮と装備近代化―
陸大卒業後、1年4ヵ月を古巣とも言える新発田で過ごした岩畔は、陸軍省の整備局に配属された。
陸大を卒業すると、陸軍省、参謀本部という中央勤務に先だって、一旦は出身部隊に戻される。
通常はそれも1年だったが、岩畔の場合、1年4ヵ月と長引いたのは陸軍内部が軍縮と装備近代化のはざまで揺れ動いていたためだった。
大正15年、それまで人事、軍務、経理、医務、法務、兵器の6局から構成されていた陸軍省に、国家総動員体制整備を担当する整備局が新たに設けられた。
第一次大戦は、日本に、優秀な近代兵器を駆使して闘う総力戦の凄まじさをイヤというほど見せつけた。
「これからの戦争は、国と国が持てる力を出し切って戦う総力戦となる」
皮肉にも遠からず現実のものとなる想定のもと、陸海軍は体制を整え始めた。
まず、手始めとして、兵器の近代化を討議する「作戦資材整備会議」が設置された。しかし、前述したようにこの会議は、軍備の近代化を願った軍人たちが考えてもいなかった四個師団合わせて9万人の兵力削減、「宇垣軍縮」を導き出すことになった。
まさに、やぶ蛇だった。
「兵装近代化のための財源確保が必要」
と、軍に向かっては師団削減の理由を説明した宇垣だったが、実際に装備近代化に充てられた資金は師団削減で浮いたものの半分に過ぎなかった。
一方、国民に向かっては残り半分をもって、
「軍縮により予算を節約した」
と説明し、軍事予算増大に嫌気のさしていた国民の拍手喝采を博していたわけであるから軍人達の憤慨を買っても致し方なかった。
なかなかに「やり手」の宇垣ではあったが、
「年増女が赤い腰巻きをチョロチョロと出しているような感じ」
と、岩畔に評価されるように、地位や名声に対する「色気」が見えすぎていた。
後にクーデター未遂事件となった3月事件でも、その背後には宇垣の影がちらついていた。
ある意味では欲が多いだけに乗ってきやすいし、担ぐのにもちょうどよい御輿のようなものであった。 余談になるが、宇垣の色気は戦争、敗戦を経ても些かも減じることはなかったようで、戦後、参議院議員に出馬し全国区でトップ当選を果たしている
こうして、出だしではつまづいたものの、総力戦準備を継続的に続けるべきとの方針に変わりはなかった。世界の流れがそうなっている以上日本もついていかざるを得なかった。
かくして、整備局が常設されることになり、新潟で田園生活を楽しんでいた岩畔は国家総動員計画の中枢へと異動していった。
整備局は統制課と動員課の2課から構成されていた。
陸軍に於けるすべての物流を一括して管理する統制課と、総力戦時の物資と人間の動員体制を研究す動員課の2つである。
岩畔は統制課に配属され、そこでの勤務を通じ「物」や「物流」に対する独特のセンスを養うことになる。
後に、アメリカ相手の総力戦を到底無謀なものとし、開戦に断固反対した岩畔であったが、ここで得た知識が彼の信念を支えていた。
ここに、整備局時代の苦労に触れた彼の談話があるので紹介する。
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- 岩畔:
- 産業連関論というものが経済学にありますが、ああいうものが当時ないものですから・・・。
非常に困るのは、戦時、大砲を仮に1年間に200門作るとする。そうすると、これに要する鉄は何トンといくわけです。鉄が何トン要るとその鉄を作るためには鉄工所を作らなければならない、鉄工所を作るとそのためにまた鉄が要るわけだ。そうすると、それを送らなけれはならない、そうすると汽車のレールから箱の鉄が要る。最後には鉄鉱石を掘るためにツルハシがいる。
これまでが全部含まれて換算しないと鉄の計算にならないわけです。難しくてね、実際困ったものです。そんなことまでやりました。 - 間:
- そういうことには統計学者の協力はなかったのですか。
- 岩畔:
- 当時は統計学者といっても駄目なのです。当時、小泉さんの経済原論にもちょっとそういう風なことが書いてあるのですが、随分耽読したけれども、とてもだめですわ。
- 間:
- それではそういうスペシャリストはいないで・・・・・・
- 岩畔:
- 私など一番のスペシャリストだった。
『岩畔豪雄氏談話速記録』より
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岩畔の取り組んでいた仕事は、まさに、アメリカがその後、コンピューターまで駆使して取り組んだオペレーションズリサーチの雛形であった。
日本陸軍には物資の補給、供給といったロジスティック(兵站学的)な思想が全くなかったというような意見が根拠のないものであることがよく分かる。
日本人はそれほど愚かな民族でもなかった。
しかし、いったん戦争に突入すると、話はまるきり異なってくる。そうした思慮の全くない参謀本部のエリート幕僚たちが、国家や戦争を無謀な精神主義でリードしてしまったからである。
むしろ問題なのは、何か事が起こるたびに視野狭窄となり、感情論に流されていく国民性にあるのかもしれない。
現代もその傾向はほどんど変わっていない。
―青年将校グループ―
しかし、こうして日々の仕事に打ち込む一方、自己の内面向上に余念のない岩畔の周辺にも時代の波は確実に押し寄せていた。
この頃、青年将校たちの間では、社会の矛盾や不条理を自分たちの力で是正して行こうとする動きが活発になり、彼にもそうしたグループの誘いがかかるようになっていた。
社会のあらゆる階層から、人間を無作為に抽出してくる徴兵制のもとでは、軍隊は社会の縮図を構成する。
その結果、階級の上下があるとは言え、冷害に苦しむ農民や、失業中の都市生活者といった社会の歪みに苦しむ人々と共同生活を送る若手将校たちの中には、軍隊特有の仲間意識も加わって、彼らに対する同情や共感に端を発して、社会に対する公憤を抱く者が多かった。
農村で娘の身売りも珍しくなかった昭和恐慌の中では、そうした感情が次第に共鳴し合ってその振幅を増してくるのに時間はかからなかった。
時代も悪かった。街で娼婦を買おうとしたら、身売りされてきた田舎の妹だったという話などがまことしやかに伝えられている。
一方、庶民の苦しみをよそに、議会では政党政治の名の下、10年1日の如く足の引っ張り合いが繰り広げられていた。青年将校たちの憤りが炎のように燃え広がるのに十分な状況がそこには揃っていた。
もちろん、憤りがあるからといって、簡単に革命を考える者などこの世にはいない。自分たちが「天皇の軍隊」であるという恍惚と甘え、そして独り善がりの義務感が青年たちを革命へと駆り立てた。
また、それとは別に、無天組としての一生を余儀なくされた者にとって、革命が栄光への脱出口であるという側面もあった。言い習わされた言葉ではあるが、すべてがひっくり返れば、下は上になる。革命への誘惑は、甘い恍惚感に満たされていたのかもしれない。
幕末の志士と同様、昭和の志士たちも徒党を組んだ。
参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎大佐の率いる桜会(※8)、北一輝の思想に共鳴する西田税に指導された天剣党等が代表的である。
しかし、日本陸軍に於いて将校たちがこうした政治的色彩の強いグループを作るのは、これが初めてのことではなかった。先鞭は既に彼らの先輩によってつけられていた。
有名なのは、東条英機や永田鉄山(※9)といった陸士16期卒の将校たちによって作られた一夕会である。
「バーデンバーデンの密約」という言葉が今も伝えられている。
大正10年、ドイツの温泉保養地バーデンバーデンに、留学や出張で訪欧中の永田鉄山、小畑敏四郎(としろう)、岡村寧次(やすじ)、東条英機といった陸士16期卒の将校たちが集まり、軍政改革や派閥解消などに関して密談したという。
第一次大戦後、いちはやく軍備の近代化を標榜した一夕会であったが、つまるところその目的は、従来、陸軍の主流派として実権を独占してきた長州閥を排除するところにあった。
維新の元勲・山県有朋によって創業されたと言っても過言でない日本陸軍においては、山形の出身地長州の人脈が枢要な地位を独占し続けて来た。しかし、維新も遠い昔の話となると、単に「長州出身」であるというだけでは、陸軍部内のアイデンティティーとしては弱くなっていた。既に、長閥支配は耐用年数を越えており、新たに勢力を伸ばしたのが陸大卒業生とその教官たちであった。
一夕会び暗躍の成果として、大正12年、岩畔が陸大に進学した年には、大きな異変が現れた。その年、長州出身者は陸大にまったく入学できなかったのである。
長州出身というだけで、学科試験を通ってきた者も口頭試問で次々と落とされたというのだから、実にドラスティックな変化だった。
それは一種のクーデターともいえた。
維新以来の陸軍に於ける長州閥支配は終わりを告げ、新たに勃興した陸大閥がそれに取って代わった。
一種の近代化には違いなかったが、そこには生臭さが漂っていた。派閥の解消と言いながら、結局、新たな派閥が力を伸ばしただけだった。
力が弱まっていたとはいえ、長年陸軍でその勢力を欲しいままにしてきた長州閥である。その息の根を止めるため、東条、永田らは「政治」の力をフルに使ったという。
―軍に芽生えた甘えの構造―
「軍人は政治に関わらない」
近代国家に於ける軍人の最大の徳目は、既に有名無実となった。
永田や東条は、陸軍幹部となって後、今度は自分たちが青年将校たちに手を焼くことになるが、皮肉なことにそうした風潮も、もとはと言えば、すべて自分たちが陸軍に持ち込んだものであった。
整備局に勤務する岩畔には、橋本欣五郎中佐率いる桜会から誘いがかかった。誘われて会合に顔を出した岩畔だったが、それは彼から見て実に「下らない」ものだったという。
会場正面の黒板に「警視総監何某」と殴り書きされている。
決起して政権を奪取した時の警視総監人事だという。
「捕らぬ狸の皮算用」
と言うが、まさにそれは大人の演じるままごとだった。
あまりの阿呆らしさに、岩畔は、その後、誘われても行く気にならなかったという。
しかし、 後に兵務課に移った岩畔は、岩畔自身を桜会の有力メンバーとする憲兵隊の報告書を見て驚くことになる。憲兵隊が誤解したのか、あるいは桜会が会合に顔出しした岩畔を自分たちの仲間と標榜したのか定かではない。当時、憲兵隊にも桜会に共鳴する者は多く、3月事件の発覚で身柄を拘束された橋本や長は、憲兵隊で酒食のもてなしを受けたという。陸軍部内も千々に乱れていた。
本来、規律正しかるべき軍も甘えの構造に蝕まれていた。制止するべき陸軍幹部の中にも、若手におもねることによって己の利を計ろうとする者がいた。
「おぬしたちの気持ちはよう分かる、よう分かるぞ」
そんな言葉一つが、
「あの人は、我々の主張を理解してくれた」
となっていった。
そう言った陸軍幹部も、そう理解してもらうだけで十分に用は足りていたのかもしれないが、こうした馴れ合いの構造が、青年達を歯止めの利かない暴走に駆り立て、ひいては社会の変質まで招いたわけだから、その罪はきわめて深いと言わざるを得ない。
こうした混乱の背景には、さらに、「統帥権」問題が横たわっていた。統帥権というのは、軍を指揮する権限のことであるが、大日本帝国憲法のもと、軍の統帥権は天皇のみにあり、帝國陸海軍は名実ともに「天皇の軍隊」として定義されていた。
すべての軍事作戦は天皇の名前で参謀本部が立案し発令するとされ、政府といえども天皇の命令なしに、一兵たりとも動かすことはできなかった。
こうした、天皇を頂点とする指揮命令体系を総称して軍令系と言った。一方、物資の調達、人員の整備、軍人に対する給与の支給など「賄い方」の仕事は軍政と呼ばれ、軍令系とは一味違ったものとして定義されていた。
軍令系の総本山が参謀本部(海軍では軍令部と呼んだ)であり、軍政系は政府の一部門として陸海軍省がこれにあたった。万世一系の天皇が指揮し、政府がこれを賄う。それが日本の軍制だった。
いかにも簡単明瞭に見えるかもしれないが、実際にはそれほど簡単ではなかった。
軍の作戦行動と賄い方は決して明瞭に区別できるものではない。そのためもあって、実際には内閣の一員として政務方に属する筈の陸海軍大臣も、一方では天皇直属であるとして二重の地位を有するなど、陸海軍の日本の国家に於ける位置は実にファジーなものだった。
国がその持てる力を総動員して行う総力戦が視野に入ってくるようになると、軍令と軍政の関係はますます複雑なものとなっていき、「建前」と「現実」を故意に混同する者が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するようになったためもあり、日本に新たな混乱を生ずるようになってきた。
こうした建前と現実の相克は、平和憲法のもと軍隊を持たないと言いつつ、現実には防衛努力をせざるを得ない現代日本にも決して無縁ではないように思われる。
―統帥権の干犯―
話を当時に戻そう。
子供の論理で「統帥権」を主張するなら、政府が陸海軍に対する予算を縮小すること自体、統帥権の侵害として糾弾できる。 天皇が作戦を執行するのに必要な兵力を削るということ自体が「作戦」への干渉だからである。これを称して「統帥権の干犯」と言った。
このレトリックを最初に持ち出したのは軍人ではなかった。
1930年、ロンドン軍縮会議で日本の海軍軍縮を条件に日米合意を取り付けた浜口内閣に対して、野党の政友会がこれを持ち出して追求したのが統帥権論議の事始めであった。もちろん、軍が全くそこに関与していなかったと言えば嘘になる。
この時、海軍軍令部( 陸軍の参謀総長に相当する)加藤寛治は、軍縮によって作戦活動に著しい支障が生じるであろうことを天皇に帷幄(いあく)上奏(※10)し、政府の条約批准が、天皇の大権に対する干渉であるということを世間にアピールした。
あからさまな軍の政治への関与であった。
戦後、陸軍に比べれば賢明だったと言われる海軍だが、歴史を辿れば、真珠湾奇襲を含め、日本にとって愚かな行動は多かった。陸軍と比べてその幼稚さに大差はない。
こうして、政治家の足の引っ張り合いと、それにつけ込む軍人によって「統帥権の干犯」という概念は一人歩きを始めた。
武官としてトルコに駐在していた時、ケマル・アタチュルクのクーデターを目の当たりにした桜会の橋本中佐だったが、さっそく 日本でも軍事クーデターを行おうと思いついたのも、日本における軍の位置づけが実に甘いものであることを読みとっていたからであろう。しかし、3月事件、10月事件と2回もクーデター未遂を起こした橋本欣五郎は、大言壮語の割には緻密さに欠け、彼の計画はいずれも失敗する。
「とにかく赤穂義士の討ち入りが無くて、酒を飲んでいる蔵之助のまねが多いんだから」
岩畔の辛辣な橋本評価である。
しかし、そんな橋本だったが彼の行動別の意味で確実な成果をあげていた。
仮にも、クーデターを企てた彼らに、何ら断固とした処置のできない政府及び軍当局の姿を天下にさらした結果、「国家」を思い「天皇」の名を口にすれば、大概のことは許されるという甘えが軍部に充満し、いざとなれば実力行動に出る軍部の恐ろしさに、利権を巡って足の引っ張り合いをするしか能のない政治家たちは震え上がってしまった。
その結果、満州事変に対しても政府は手をこまねくだけだったことを考えれば、橋本欣五郎の果たした”功績”は決して少なくはなかった。
―軍人官僚の謀略―
昭和6年、世に言う柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発する。
柳条湖とは張学良率いる東北軍閥の兵営近辺の地名であり、ここを走る満州鉄道が何者かにより爆破されたというのである。
これを張学良軍による破壊工作と主張し攻撃を開始した関東軍だったが、実際は関東軍の河本末守中尉が爆破を担当し、爆破といってもその直後に列車が支障なく通過したというから線路は全く無傷だった。
張作霖爆殺でも使われた自作自演の典型的手法であった。
まんまと張作霖の爆殺に成功はしたものの、仮にも「保境安民」を唱え、満州を日本の希望どおり、ソ連や中国に対する緩衝地帯として維持してきた張作霖を爆殺した結果、その子、張学良が東北軍閥を率いて国民党へ走ってしまったのは日本軍にとって皮肉な誤算だった。
その結果とも言える張学良の反日的行動に業を煮やした日本軍が、とうとう彼を除き満州を手中に収めようとしたのが満州事変だった。
当時、満州には関東軍の10倍を超す張学良軍が展開していたが、最初、事件を関東軍の挑発に過ぎないと判断した張学良は軍を動かさなかった。しかし、それは大きな誤算だった。石原莞爾率いる関東軍は張学良の無抵抗をいいことに破竹の進撃を果たしてしまった。
事変に当たって、謀略の立案者・石原莞爾の狂信的とも言えるキャラクターは遺憾なく発揮された。
満州に足場を失った張学良が満州領域外の錦州に亡命政権を設置するや、石原はそこに越境爆撃を敢行し事態の推移を見守る世界を驚かせている。
この時、司令機に自ら乗りこみ、爆撃隊を目的地まで誘導したのも石原だったと言われ、(※11)こうしたルール破りにより積極的に日本を世界の孤児たらしめ、国際社会の無用なくびきから日本を解放しようという意図があったと言われている。
石原莞爾という男、その辣腕と天才ぶりの故に現代でもその信奉者は多いが、彼の思想はつまるところ、釈迦の入滅後2千年経つと世の中が大いに乱れるという仏教の末法思想に端を発していた。
日蓮はさらにこれを具体的に、
「闘詳言訟して白法隠没せん」
として、いまだかつて誰も体験したことのないような大戦争が起こると予言したが、その教えを字義通り真に受けた石原は、教典に予言された未曾有の大戦争こそ東洋と西洋の戦いであり、それに備えて日本は満州を抑えておくべきだという判断から満州事変を起こしたというのである。
そのためには邪魔な国際連盟など脱退すればいいし、脱退せざるを得ぬようにもっていこうというのだから無茶な話だった。
―「暴走」が「英断」に―
自己実現予言(self-fulfilling prophecy)という言葉がある。
予言をしておいて、自分でそれが現実となるよう持っていくことを意味するが、石原は結果的に末法予言を自分で実現していった。
こうして、満州で暴れ放題の関東軍にとって、問題はむしろ日本政府をどう丸め込むかであった。しかし、事態の不拡大を早々に打ち出したものの日本政府に関東軍の独走を抑える力は全くと言っていいほどなかった。
失敗に終わったとは言え、3月事件、10月事件と、桜会により2度もあいついで企てられたクーデターは、日本の政治家たちに言い知れぬ恐怖を与えており、正面切って軍に逆らうことに誰もがとまどいを感じるようになっていた。橋本と板垣、石原の間に何らかの示し合わせがあったと言われているが、むべなるかなである。
「たとえ日本から独立しても当初の目的を完遂する覚悟である」
当時、陸軍省で当直していた岩畔は、関東軍が発した電文を受理している。しかし、満州の有利な戦局を目の当たりにした日本の世論は、やがて関東軍礼賛へとその方向を変えていく。
ヨーロッパに留学しながらも、ゲーテやベートーベンに見向きもしなかったという石原独特の強烈なドグマが日本をリードし始めた (『軍国日本の興亡』猪木正道 中公新書)。
消極的ながら事態不拡大の方針を掲げていた日本政府も次第に態度を変え、命令無視の暴走行為も英断としてその評価を変えていった。
まさに、結果オーライだった。かくして、満蒙の地に「王道楽土」が築き上げられるとともに、日本には軍人独走の種がまかれた。
清朝が崩壊して後は軍閥が割拠し国家の体を成していなかった中国、哲学のない日本の議会政治、両国に共通する脆弱さを読み切った石原莞爾の勝利だった。
満州の騒乱が一段落した頃、岩畔に満州への異動命令が下った。
昭和7年、満州事変の翌年である。
この人事は、関東軍の司令官以下多くの参謀を入れ替える大きな手術だった。
関東軍司令官として本庄繁に替わって武藤信義大将、関東軍参謀長としてかつて整備局長として岩畔の上司であった小磯国昭が任じられた。
後に首相をも務めた小磯だったが、この時は陸軍次官からの転出であり、どう見ても降格としか見えない人事だったが、満州事変の後片づけが日本にとってそれだけ重大問題であったことと、橋本欣五郎とともに3月事件、10月事件に濃密に関わっていたとされる小磯に対する一種の懲戒、あるいは一種のほとぼりさましの意味が込められていた。もちろん、そんなことは表面には出ていない。
クーデターに乗じ、国会を解散させて、政権を奪取するつもりだった小磯に対する処分(と言っていいのかどうかは分からないが)がこの程度ですむところに、当時の陸軍の実態がよく表れている。
―理想国家・満州―
さて、満州である。
荒っぽい切り取り仕事が終わった後に必要なものは、撤密な計画に基づいた「新国家」建設であった。
満州国建設は第2段階に入った。関東軍経済参謀として岩畔に課せられた使命は、満州国の国家組織の整備と産業の育成だった。
瞬く間にごり押し同然に立ち上げられた新国家に、国際社会の目は厳しかった。国家としての正当性を主張するためには、独立国家として相応しい組織の整備が急務だった。
岩畔が着任した時、前任者からの引き継ぎ事項が鉄道用枕木の会社に関する申し送りと、奉天に競馬場を開設するかどうかまだ未定であるという2点だけだったことを見ても分かるように、そうした仕事は全くと言っていいほど手つかずだった。
岩畔らの八面六臂の活躍により満州の地に新規の産業が次々と立ち上げられていった。在任中に岩畔が書き上げた会社の定款だけで65本あったという。新規の会社は、役員として「満州人」を必ず1人は置かなければならないと規定されていた。
植民地に過ぎないとの批判はあるものの、「理想国家」の建設に対する関東軍のこだわりは強かったようである。経済的利益を求めるだけの日本企業の進出は厳しく制限された。
満州の経済は次第にその形を整えていった。
結局は流れてしまったが、満鉄を解体してその広範な事業の各部門を満州国の一元支配に置こうという満鉄改組計画も岩畔らによって打ち出されている。
満鉄は、満州にあっては国家の中の国家とも言うべき巨大な組織だったが、せっかく、満州国というものができた以上、これを育成することによって経済の発展をはかるべきという理念であった。
満鉄を解体し、鉄道は鉄道、付属行政地は付属行政地、工業は工業と、すべてを一元的に満州国諸部門の支配下に置こうというのである。
満州国を牛耳る関東軍による一元支配を目論んだものとも解釈できるが、単なる纂奪(さんだつ)を目的とした欧米流の植民地支配とは一線を画した一つの見識ではあった。満鉄に利権を持つ日本の経済界がこぞって反対したことからも、この計画が決してお為ごかしのものではなかったことが分かる。
この件に関しては、その実現のため、岩畔自身が東京に直訴に出向いてもいる。
しかし、陸軍省で待ちかまえていたのは当時陸相の荒木貞夫の腹心、小畑敏四郎(当時、参謀本部第3部長)だった。
「今、こんなことで荒木に傷をつけるわけにはいかない」
小畑はむべもなく提案を却下した。
因みに、この時参謀本部の小畑にとって満州問題は全く管轄外であり、あくまで荒木の腹心の部下として岩畔らの計画を阻止すべく、迎え撃ってきたのである。
それでも、食い下がる岩畔らとの押し問答の果て、
「お前ら覚えておれよ」と捨て台詞を残して小畑は席を蹴った。
後にマレーの虎と言われる山下奉文も軍事課長として同席していたが、争いに巻き込まれたくはなかったのであろう、終始腕組みをしたまま寝たふりをしていたという。
満鉄改組が実行されれば、満鉄の株を大量に保有する日本資本は大打撃を被る。資本家たちは拓務省などを通して強硬に反対していた。荒木としては資本家勢力との摩擦を怖れたのであろう。
当時、若手将校にさかんに酒食を振る舞うなどして人気取りに余念のなかった荒木であるが、財界との間に変な味噌はつけたくなかったようである。
真崎甚三郎と並んで二・二六事件でも皇道派青年将校の精神的支柱となった荒木であるが、結局は、実体のない不満に若者を駆り立てただけで、理想が一旦実現性を帯びるや冷淡にならざるを得ないまがい物であった。
若者の夢を利用し、己の保身と栄達を策したマキャベリストと言われても仕方がない。指導的立場に立つ上層部にそうした人間が多かったのが陸軍の悲劇となったようである。
余談だが、後に松岡洋右が満鉄総裁となり何かの席で岩畔と同席した折、岩畔が張本人であるとも知らないでこの一件を持ち出し、
「以前に関東軍から満鉄を分割改組して国有化しろという要求が出されたらしいが誠にけしからんことである」と述べ、
「なにがけしからんのですか」と応酬した岩畔との間で議論になったという。
かくして、一敗地にまみれた岩畔だったが、満州滞在中、彼の仕事は軍人というよりむしろ経済官僚のそれと言った方が良かった。
その後、満州国に対する政策を一元化するために設立された対満事務局事務官として出向した岩畔は、「経済官僚」としての腕をさらに磨くことになる。
こうして、整備局での「兵站」や「物流」に続いて、満州では国家経営まで学んだ岩畔は、通常の陸軍軍人が持ちようのない経済センスを養っていった。