2. 別名「ろうそく連隊」で奮戦
―ロシア革命の勃発―
陸軍を取り巻く内外のこうした複雑な環境の中、陸軍士官学校を卒業した岩畔は新潟県新発田の歩兵第16連隊隊付将校として赴任する。
陸軍士官学校を卒業した新任将校はすべて、実務経験を積むために、いったん各地の連隊にばらばらに配属される。
歩兵第16連隊は、別名を「ろうそく連隊」と呼ばれていた。彼が赴任する2、3年前まで、新発田には電気が引かれておらず、夜間の照明はろうそくしかなかったからである。
飛び抜けた田舎に赴任させられてはいるが、それは、決して岩畔の陸士時代の成績が悪かったからということではない。当時、陸士卒業生は2,3名ずつを1組として各地の連隊に配属されることになっていたが、連隊間で配属される卒業生の質に差がでないよう、成績トップの者は1番ビリの者と組み合わせ、その次も同様に成績上位と下位の者を組み合わせるといったやり方でグループを作っていた。3人組を作るには、真ん中あたりから1人抜いてくるといった具合だった。
現代では、封建的で石頭だったと固定観念をもって考えられる旧帝国陸軍ではあるが、それなりに合理的な運営が行われていた。
こうしてのどかな田舎で始まった岩畔の士官生活だったが、それも長くは続かなかった。
連隊に出動命令が下された。行き先はシベリアでだった。
第一次大戦末期、突如として勃発したロシア革命は、世界が未だかつて夢想だにしなかった共産主義国家をこの世に現出した。
資本主義にとって不倶戴天の敵、まさに「妖怪」の出現に驚いた西欧諸国は武力をもって介入するべく出兵を決意した。
表向きの理由は、チェコ軍の救出だった。
第一次大戦でドイツと共に戦いロシアの捕虜となったチェコ軍は、囚われの身となるや寝返ってロシア麾下(きか)の軍団としてドイツと戦っていた。そのチェコ軍団がシベリアで同じようにロシアの捕虜となっていたドイツ軍と衝突し危機に陥っているというのである。これは実際、かなり誇張された話だった。
出兵に当たって、西欧諸国は、日本にも応分の協力を求めてきた。明治維新で国際社会にデビューした日本であったが、「いつまでも子供扱いはしないぞ。国際社会の一員としてそれ相当の負担はしてもらう」そんなニュアンスがそこには込められていた。
山形有朋をして「今、日本がシベリアに出兵してその目的を達しうるの成算ありや」と言わしめたように、当初、日本国内には身勝手な西欧諸国の要求に反発する意見も多かった。
日本が最終的に出兵に踏み切ったのは、英仏に加えて米国までが共同歩調をとることを表明し、日本に対しても足並みを揃えるように要求してきたためだった。日本にとって、日露戦争でロシアとの間に和平を取り持ってくれたアメリカは、言うなれば大恩人である。その意向に抗することはできなかった。また、アメリカに対する片思いとも言える好意と信頼を日本人は持っていた。
山県有朋以下多くの政治家が心配したように、出兵の決定に伴って各地で米価が暴騰し、頻発する米騒動に国内は揺れ動いた。日本に莫大な軍需景気をもたらした第一次大戦であったが、日本の産業構造はいわゆるバブル状態と言えるところまで膨張していた。
大幅に増加した工業労働力に比して、農村は荒廃、農民も減少し、米の生産力は落ち込んでいた。そこに持ってきてのシベリア出兵である。米価高騰を当て込んだ、ごく一部の商人らの買い占めがさらに米価をつり上げた挙げ句の騒ぎだった。
そんな、国内の混乱を後に、一路シベリアへと向かう「ろうそく連隊」だった。とにもかくにも岩畔にとって初陣だった。
―シベリア転戦―
シベリアに到着した岩畔の連隊は、ウラジオストックとハバロフスクの中間に位置するスパスカヤへと前進した。スパスカヤとは厳密にクレフェシカ川西岸の農村地帯のことであり、岩畔たちが進駐したのは川の東岸を走る線路と川の間に縦長に開けたエフゲーニエフカと称する集落だった。日本軍はこのあたりを総称してスパスカヤと呼んでいた。(※3)
スパスカヤの南から東にかけては高地帯が広がり、北から西にかけてはハンカ湖に連なる広大な湖沼地帯が広がっていた。広大な湖沼地帯は厳冬期には氷結し人馬の往来を可能としたが、4月に入り氷が一旦溶け出すと、増水した河川は交通及び戦闘上の一大障壁と化した。そのため、鉄道路線を擁するこの狭隘な地域は、日本軍としては絶対に押さえておかなくてはならない交通の要衝であった。
しかし、「ろうそく連隊」が到着した時、エフゲーニエフカの集落の、官公署や兵営といった主要な施設は既に共産主義パルチザン部隊・エスエル(SR)によって押さえられ、ろうそく連隊は、駅の周辺とその東側に残されたわずかな建物を拠点として、革命勢力と対峙することになった。
出兵の目的は、あくまでチェコ軍の救出であり革命勢力との戦闘ではなかった。しばらくの間、両者の間に睨み合いが続いたが、それも長くはなかった。
やがて、両者の間に小規模な戦闘が頻発するようになる。パルチザンがゲリラ戦を展開し始めたのである。パルチザンは日本軍の敷設した電信線を切断し、修理に出向いた工兵を狙撃するという作戦に出た。救出に出向いた岩畔の目の前でも工兵が狙撃されている。彼にとっては生まれて初めての実戦だった。
翌年の4月まで連隊はこうした小競り合いに明け暮れた。
しかし、ハンカ湖の氷もゆるむ4月、日本軍はエスエルの武装解除を決意する。いよいよスパスカヤに於ける雌雄を決しようというわけである。
年が明けてから、スパスカヤ周辺に於けるエスエル兵力は急速に増強され、3月末の時点でその兵力は歩兵1800、騎兵100、飛行隊200と膨れ上がり、訓練未熟の寄せ集め兵団とはいえ、もはや日本軍にとって重大な脅威と化していた。
日々、膨張していく敵の戦力をこのまま放置すれば、やがて戦いの火蓋が切られた時には日本軍はいともたやすく全滅してしまう。そんな危機感が増大していた。
日本軍は、先手必勝の理(ことわり)を実践した。
戦闘詳報は記す。
「(エスエルの)態度漸ク傲慢不遜ト為リ流言ヲ放ッテ日露両軍開戦ノ暁ニ於イテハ日本軍ヲ一蹴殲滅スベシト豪語スルモノアルニ至レリ」
日本軍に攻撃を最終的に決断させたのは、町の酒場で酔ったエスエル兵士の放言であった。
「敵の攻勢は間近い」
戦闘詳報にはこうある。
「四月四日夜ハ極メテ平静ナリシカ五日早朝ニ至ルヤ敵兵営騒擾ノ色アリシカ」
不安と憶測も戦場では意志決定の大きなファクターとなる。革命軍の動きが活発化した5日早朝、各部隊に出動命令が発せられた。
岩畔の小隊に下った命令は、
「鉄道停車場の敵勢力を武装解除せよ」というものであった。
ところが、せいぜい十数人の軽武装兵がいるだけという事前情報に従って、40名ほどの小隊を率いて現場に到着した岩畔の前に現れたのは、100名を下らぬ敵兵と装甲列車だった。
強気に武装解除を呼びかけたものの、多勢に無勢、相手が応じる筈もない。睨み合いの末、やがて撃ち合いが始まった。敵装甲列車も猛射を浴びせてきた。小隊の危機だった。
その時、岩畔の目に留まったのが停車中の無蓋貨車だった。その上で幌を被っているのは敵の大砲である。
「あの大砲を取りに行こう」
思い立てば行動に移すのは早い。弾幕をかいくぐり貨車に駆け上がると、その辺にあった板で地面に橋を渡し一門の大砲を引きずり降ろした。これで、敵を砲撃しようというのである。近くにあった砲弾を大砲に装填すると、何発か敵装甲列車に向かって発射した。
しかし、岩畔の目論見はうまくいかなかったらしい。
戦闘詳報には、
「信管ノ測合適当ナラザリシカ悉ク砲口直前ニ於イテ破裂シ目的ヲ達セズ」
とある。
信管の調整が悪かったようで、砲弾は大砲から飛び出すとともに空中で爆発したようである。 結局、敵装甲列車の排除には味方の狙撃砲が用いられている。
しかし、その後、数日間にわたって続いた戦いで、この時捕獲された大砲は、信管も調節され、大いに活用されたという。
砲撃はうまくいかなかったものの、この果敢な活躍で岩畔は帰国後金鵄(きんし)勲章を授与されている。一旦は思わぬ砲声に敵の砲撃と勘違いして仰天した味方だったが、事情が分かると、
「あの(新米の)岩畔ががんばっている」
と、敵の猛反撃に圧され悲観的になっていたところに大きな発奮材料になったという。事実、日本軍はその後各所で退勢を立て直し、数日間にわたる戦闘の後、革命勢力をスパスカヤから駆逐している。
岩畔は、その後、捕獲された大砲6門をもって連隊内に急遽新設された砲兵隊の指揮官に任ぜられた。ちなみに、その時の大砲はいずれもフランスの最新式のものだったという。