5.中野学校の設立に関与
―郵便物の開封作戦―
憲兵隊を監督指揮する立場にある兵務課は、国の内外にわたる情報活動を統括していた。
日に何十枚も上がってくる膨大な報告書を、岩畔は日々読み続けた。役に立つ情報もあれば、全く信憑性の置けないものまでさまざまだった。
そもそも、岩畔が兵務課に着任した時、兵務課長の田中新一から見せられたのが「一部将校の動向」と題した書類で、その中では岩畔自身が統制派の活動家であるかのように記載されていたという。
岩畔にとってはもとより身に覚えのないことであり、田中の薦めもあって、岩畔はその書類を自ら破棄した。それだけに、その他の報告書に関しても上がってくるものをそのまま鵜呑みにすることができないことは、彼が一番良くわかっていたことだろう。
しかし、それくらいのことで消極的になる岩畔ではなかった。
彼は、積極的に諜報活動を充実させていった。
まず手始めは、外国大使館や公使館に対する盗聴や郵便検閲だった。彼の部屋からは各国大使館の電話を居ながらにして聞くことができたという。当時まだ珍しかったテープレコーダーまで導入されていた。
こうした活動に法的な根拠など全く無かった。それは文字通りの「実力行為」だった。
各国公館に関係した郵便の開封にも格段の技術革新がなされた。各国公館を出入りする郵便は、必ず経由することに決まっている中央郵便局で押さえることができた。そこに専門家が待機し、郵便がやってくると直ちに「開封」作業が始まった。
作業の第1工程は封ロウの除去である。
それぞれ特徴あるスタンプが押してあるからまずその型が取られ、その後で精巧な刃物を使ってロウが慎重に切り開かれた。間違って封筒を切ってしまえば開封がばれてしまうから集中力の要求される作業であった。
初めの頃は、蒸してロウを溶かしていたが、それではインクが滲んでしまうというので、刃物による切開法に替えられたという。
刃物による開封が無事に済むと、中の手紙を取り出し、写真を撮ると、痕跡を残さぬよう再度の封印作業に入る。
これだけの仕事を6人ほどの熟練した専門家グループで2時間ぐらいで行っていたという。
―偽札作戦も実施―
一方、敵国の経済撹乱のため、偽札製造も研究された。
一口に偽造すると言っても、生半可なことではなかった。紙幣というものは経済の根本であり、易々と偽造されたのではどこの国もその経済自体が成り立たない。各国とも技術の粋を結集して偽造できないよう工夫を凝らしていた。岩畔の言を借りれば、
「どこの紙幣でも10や20の秘密がかくされている」ということになる。
イギリス紙幣の場合、リネンから繊維をとったぺらぺらのリネン紙でできており、この紙の製造が非常に困難だった。アメリカのドル紙幣は、インクに特徴が あって、赤や青の水玉模様がある種の薬品をかけるとすべての色が一斉に消えるようになっており模倣するのは非常に困難だった。インクの調合自体、非常な熟 練を要する作業だという。
一方、印刷技術で群を抜いていたのがロシアだった。ロシアは、絶妙の色彩グラデーションを、些かのズレもなく印刷できる高性能印刷機オプロフを保有し、紙幣、パスポートといった国家証券の印刷にそれをフルに活用し、高度のセキュリティを確保していた。
オプロフの優秀性に圧倒されたドイツが模倣して作ったのがザンメルという印刷機だった。
偽札作りに取り組むに当たって、日本はまずザンメルを買おうということになり、当時で1台28万円の機械をドイツから輸入することになった。その頃大佐の月給が400円であるから、決して安い買い物ではない。
折悪しく始まった欧州大戦のため、機械はナポリから船出したという。
巨額の投資の甲斐があったのか、インドのルピーや中国の国幣に関しては、素人の目には判別できないほど精巧な偽札ができたが、アメリカのドルは、なかなか良いのができなかったという。
できあがった偽札だが、中国に対しては現地の特務機関によって、かなりの額がばらまかれた。いくら、よくできていると言っても、最初に使う時は、やはり、 見破られるのではないかという心配が先に立ったようで、見破られて逮捕されれば責任は全部実行者が被るという条件のもと、上海のデパートで最初に行われた テストだったが、それでも心配になったのか本物の紙幣と混ぜ併せて使用された(この時購入されたハンカチセットは、岩畔へのお土産として持ち帰られた)。
最初のうちこそ、かわいいものだった偽札作戦も、やがてはエスカレートして行き、最終的に中国全土で60億円相当の偽札がばらまかれたという。
岩畔にハンカチセットをお土産に買った男(上海松機関長・坂田誠盛だと思われる)は、後に上海特務機関長となり、偽札を使って物資を買いまくり、蓄えた金で北京に宮殿の離宮を別荘として購入したそうだ。
「ひどいことをしているそうじゃないか」
と責める岩畔に、
「いつか遊びに来て下さい」
と答えていた坂田だったが、その約束も実現せぬまま終戦となり、身一つで逃げ帰ってきて、残された財宝はすべて共産党のものになってしまった。
こうして見ると、盗聴といい、偽札といい、日本は随分ひどいことをしていたようであるが、こうした活動は決して日本の専売特許ではなかった。世界各国はとうにこうした工作活動に取り組んでいた。
実際、ワシントン条約締結後、アメリカ情報部で暗号解読を担当していたヤードレ一によって書かれた「アメリカのブラックチェンバー」は暗号解読に止まらず 秘密諜報戦の実態を赤裸々に描き、その中で、ワシントン会議の最中、既に、日本の外交暗号は完全に解読されており、日本はアメリカの掌中で踊らされていた という事実が明らかにされ、会議当時駐米大使であった幣原喜重郎外相に対する責任問題にまで発展している。(※13)
事実、岩畔の語る日本で行われていた諜報活動の多くは、ヤードレ一描くアメリカの諜報活動をかなり参考にしたのではないかと思われる。
近代の諜報戦とはそうしたものであり、岩畔としては、世界各国の動きを睨みながら日本が遅れをとることがないよう考えていただけだった。
後の話にはなるが、「日米交渉」で岩畔と行動をともにした、アメリカの神父ドラウトは、電話が終わるたび、大声で「国務省の馬鹿野郎」と叫ぶのが常であっ た。盗聴されているに違いない、というのである。事実、岩畔らの通話はすべて盗聴され、国務省やFBIには現在でもその記録が残っているという。(※ 14)
終戦後、占領軍として日本に入ってきたアメリカも、同じようなことをしようと思ったのであろう、ザンメルを必死になって捜したらしい。
ところが、陸軍に協力しザンメルを稼働させてきた凸版印刷は機械をばらばらに分解し地下倉庫に隠してしまったので、結局、米軍も見つけることはできなかった。
のちに凸版印刷は、機械を再び組み立てて、その後も使用したという(もちろん、偽札作りではなかろうが)。
また、日本陸軍が育てた偽札職人の中には、戦後、アメリカへ連れて行かれ、その仕事を続けた者もいた。
「しばらくしたら、帰国するのでよろしく」
久しぶりに会ってそう言われた岩畔は、
「もう偽札のことはごめんだよ」
と苦笑したという。
―参謀本部で秘密工作―
兵務局にあって、二・二六事件の?末を見届け、諜報活動にも力を入れ始めた岩畔だったが、その翌年、昭和12年には早くも新しい部署への辞令が彼を待っていた。
今度の赴任先は参謀本部だった。
参謀本部と言っても作戦部ではなかった。防諜・謀略活動を目的として新設された第8課への異動だった。新設部局への配属は、岩畔にとって整備局に続いて2回目であった。日本陸軍にとっても、岩畔にとってもめまぐるしい時代だった。
影佐禎昭大佐を課長に戴く参謀本部第8課は、それまで、陸軍部内で無定型に行われてきた謀略活動をより体系的かつ組織的に行おうという趣旨で設立され、別名を謀略課と言った。
岩畔は謀略主任に任じられた。
課長の影佐大佐は、その頃、既に国民党政府との秘密交渉にあたっていた。
周仏海(国民政府副秘書長・国民党中央政治部長)や高総武(国民政府外交部亜州司長)、曽仲鳴といった中国国民党政府の親日的な幹部と秘密裡に折衝し、日中和平を成立させようというのである。
国民党内で武断派が圧倒的な勢力を誇る中で、こうした話が表に出れば彼らの政治生命だけでなく、実際の生命も危うかった。事実、蒋介石の放った工作員により暗殺された者もいたという。交渉は秘密裡に行われなければならなかった。
高総武や周仏海といった親日派の政治家は、上海から密かに船に乗せられると、横浜港で警察外事課の協力のもと身柄を保護され、交渉は赤坂の料亭で行われた。
秘密交渉は、実際上はすべて陸軍の手によって遂行されたが、形の上では近衛首相の直接指揮ということで外務省は全くノータッチであったという。
話し合いの結果、日中の和平を取り持つには、国民党内でも和平派の中心人物である汪兆銘を担ぎ出すのがよいということになり、高総武らに手紙を託すことになった。
この時手紙を書いたのが、陽明学者で戦後歴代首相の指南役としても名高い安岡正篤であった。その手紙に関して面白いエピソードがある。
多少の困難は乗り切ってでも、日中和平の道を開いて欲しいという趣旨で安岡は、
「王倫の故事に倣ってこの難局を解決して欲しい」
としたためた。王倫とは、中国で金と宋(南宋)が争っていた時、和平の道を開こうとした人物である。
ところが、汪兆銘もその側近も王倫の名を知らなかった。
早速、汪兆銘の側近が調べてみると、宋には秦桧という和平派の宰相と岳飛という主戦論者がいて、王倫というのは秦桧の側近だった。
しかし、よくよく調べてみると主戦派の岳飛が杭州に岳飛廟まで建てられ神として祀られているのに対し、秦桧は漢奸(中国に於ける「売国奴」の意)の代表的人物とされ、岳飛廟の便所には秦桧の像が建てられ、岳飛廟に参った者はそれに小便をかけてくるというのである。
それを聞いた汪兆銘は、
「俺に秦桧のようになれとでも言うのか」
と思ったというが、それでも自分がやらなければいけないと考えて、申し出を引き受けたという。
そんな事情を知らない安岡としては、単純な故事として引き合いに出しただけであったが、それでも引き受けた汪兆銘の覚悟のほどが忍ばれるエピソードである。
しかし、この時
「重慶に対立する政府を作って抗争するのも1つの案、そして、私が日本と向こうの政府の中間にいて両者を調停するのが第2案、どちらでもご意向に添う」
と聞いてきた汪兆銘に、
「それなら新たに政権を作れ」
と言った日本は、彼をして、結局、秦桧の二の舞を演じさせてしまった。支那派遣軍の意見と言うことであったが、当時、北支で参謀長をしていた武藤の意見ではなかったかと岩畔は言う。
汪兆銘工作に関しては、もっぱら影佐が専任として行い、自分自身は事務的に手助けをしただけであったという岩畔だが、戦後になって、
「今から考えれば、(汪兆銘には)調停の労をとらせた方がよかった」
と漏らしている。
―陸軍中野学校―
こうして兵務課を振り出しに参謀本部第8課と、諜報関係の仕事に手を染めることになった岩畔は、その後、日本初のスパイ学校、中野学校の設立に携わること になる。と言っても、当初、中野学校という名称はまだなかった。最初は、「後方勤務要員養成所」として9段に設置され、その後、手狭になったため、第8課 から陸軍省軍事課へ異動した岩畔によって、中野の電信隊跡地に移設され、そこで初めて中野学校と称された。
しかし、その後も中野学校の名前を口にすることは厳禁され、校門には「陸軍省通信研究所」という小さな看板が掛けられただけだったという。(※15)
化学戦指導の習志野学校といい、中野学校といい、軍関係の施設でこうした地名で呼ばれるものは、概ねその内容を一般に知られたくないものであり、できることならその存在自体も人に知られないほうがよかったということであろう。
組織が確立し、いよいよ学生を募集する段になると岩畔らしい考え方が前面に押し出された。
大方の意見が、陸軍士官学校卒業生の中からさらに選抜した者を中野学校で教育しようというものであったのに対し、設立委員の岩畔は、軍人精神一点張りで教 育された者では情報を正しく評価することはできないと言って、既に一般社会で働いている者から中途採用で入学させることを主張した。
結局、岩畔の意見が入れられ、当時、半分民間人のように考えられていた予備士官学校の学生を採用することになった。
巷間、忍者もどきのスパイ術で有名になった中野学校だが、岩畔はそうした技巧だけに走ることを戒め、
「情報を的確に判定する能力こそスパイとしてもっとも大事な能力である」と説いた。
「情報を的確に判定するためには、情報を取ろうとする相手よりこちらの方がより高いレベルに立っていなければならない」
それが彼の持論だった。
本来、中野学校が目指したのは情報を盗んでくるコソ泥ではなく、高い次元で工作活動を実践できる者の養成であり、その理想とするところは、日露戦争の時の明石元二郎大佐だった。
高レベルの工作活動に対する需要は、日本の大陸政策と密接に関連していた。日本の大陸侵略と呼応し、大陸で暗躍するようになったのが、「壮士」とか「大陸浪人」と呼ばれる人士であった。
そうした中には、頭山満のように中国人からも賞賛される傑物もいた反面、日本で食い上げたごろつき同然の者も大勢混じっていた。
彼らは、軍部や中国に利権を探る日本の資本家と結託し、ケースバイケース、「雇い主」に好都合な状況を醸成することを生業としてきた。彼らにとって最大の武器が、暴力を背景とした非合法活動であったことは言うまでもない。現代の総会屋と同じである。
しかし、朝鮮の甲申事件とか、それに続く閔妃殺害事件のように、こうした「壮士の親方」を頼りにした大陸政策では、逆に反日運動を高揚させることが多く、それに対する反省から、もっと大所高所に立って工作活動ができる人材の養成が要望されるようになっていた。
そうした要求に対する回答が中野学校であった。
―軍務局軍事課―
こうして、参謀本部で諜報・謀略の近代化に従事した岩畔は、翌年の昭和13年3月には軍務局軍事課へと異動する。参謀本部の謀略課に籍があったのも、わずか7ヵ月に過ぎなかった。
この頃の岩畔は、まさに脂(あぶら)が乗り切った時期だったのか、その経歴は「席を温める暇がない」という形容がぴったりである。
陸軍省の中で軍務局は、大蔵省に於ける主計局と同様、機能においても地位においても省全体を束ねる中枢の位置を占め、その頂点に立つ軍務局長は、通例、陸軍次官、陸軍大臣と昇格していくポストだった。
軍務局は対外政務を担当する軍務課と予算や組織の編成を行う軍事課の2課から成り立っていた。
2つの課ではどちらかというと軍事課が優位に立っていたようであり、軍務局長、軍事課長、軍事課高級課員の3人は陸軍大臣の政務幕僚として機能するところから政治スタッフと呼ばれていた。
やがて軍事課長となった岩畔は、陸軍に関わるさまざまの活動に広範に関与していく。
当時、陸軍に割り当てられた3千万(今の金額になおせば、数百億円であろう)とも言われる巨額の機密費は軍務局軍事課の管轄下にあり、その使途に対しても裁量権を有していた。
機密費はその性格上、使途を表に出す必要がなかった。そのため、その一部は、議会工作にも回され、陸軍にとって有利な政局を現出するためにも使われた。当時、こうした裏で動く資金の出所としては陸軍と満州鉄道がその双璧を成していたとされている。
―面会人―
陸軍省軍事課長となった岩畔には日々多くの面会人が殺到した。
ちゃんとした用件があって来る者もいるが、潤沢な陸軍の機密費をあてにして来る右翼や、後で人に、
「今、軍事課長と会ってきた」
というだけのためにやって来る者もいたという。
それだけ羽振りのいいポストが陸軍省軍事課長だった。
有益な情報をもたらしてくれる者がいるかと思うと、偽の情報、いわゆる「ガセネタ」をつかませにやって来る者もいたといい、それらを見分けるのが彼の仕事でもあり一種の楽しみでもあった。
―「ノ」の字を負けろ―
陸軍特務機関が行う、さまざまの秘密工作活動に機密費から資金を提供するのも軍事課の仕事だった。
ある日、かつて参謀本部謀略課で岩畔の上司だった影佐とは同期に当たる広東特務機関長の和知鷹二大佐が訪ねて来た。彼が持ち込んできたのは、中国南部で政治家を買収して、和平工作を進めようという話だった。
汪兆銘を押し立てて傀儡政権を作ってはみたものの、逆に中国人の反発を強めただけで、はかばかしい成果も上がっていない。しかし、巨額の軍費と犠牲を伴う軍事作戦を考えればわずかな金で懐柔できるならそれに賭けてみるのも悪くない。
「いくら必要ですか」
「まず香港で瀬踏みするから、とりあえず支度金として1万円用立てて下さい」
支度金と言っても、決して安い金額ではない。
「では、1万5千円出しましょう」
色をつけた回答に和知はいたく喜んだ。
やがて、瀬踏みを済ませた和知が再びやって来た。
「まあまあの感触でした。もう少し調査したいので、今度は10万円お願いします」
岩畔は今度は12万円出した。
しばらくして、計画を練り上げた和知が最終的に要求してきた予算はなんと5千万円という桁違いの金額だった。いくら陸軍の機密費が膨大とは言え、総額が年間で3千万である。とても出せない。
岩畔は、和知を待たせるとその足で大蔵大臣を訪ねた。
「このまま戦を続けると金がいくらかかっても片づきません、工作で早く切り上げれば安く片づくのですが少し出しませんか」
唐突な話で蔵相も即答はできない。検討させてほしいとその場を取り繕った。
岩畔とて、決して5千万が右から左に出てくるとは思っていなかったであろう。ダメで元々。この機会に、機密費の重要性を蔵相に認識させ、いずれは総枠を増額させようという下心があったのかもしれない。
陸軍省に戻った岩畔は和知にこう言った。
「全額出してあげたいのだが、陸軍も3千万しかない。すまないがノの字だけ負けてくれませんか」
ノの字の分を負けてくれという。
「千」からノをとると、十になる。50万で我慢しろというわけである。和知は苦笑すると、50万を受け取って帰っていった。その工作がその後どうなったか、残念ながら定かでないが、50万で片がつかなかったのは間違いない。
その後も中国問題は尾を引いて、その解決をも視野に入れながら岩畔は対米交渉に乗り出すことになる。
―ミミズの効用―
変わったところで、当時、その設立に岩畔も関与したという陸軍謀略資材研究所(登戸研究所)ではミミズの研究も大まじめで行われていたという。
ロシア沿海州の哨戒線を工作員が突破する時、警戒の犬を黙らせる手段として考案されたのがミミズだった。
道路上でヒョコヒョコ動いているミミズに犬が気を取られているのは、よく見かける光景であるが、そこにヒントを得たという。
最初はスパイにミミズそのものを持って行かせ、犬がくればそれをばら撒き、犬がそれに気を取られている間に逃げ、それでも、結構うまくいったというが、そ れでは謀略資材研究所の名前が泣くというわけで、ミミズから抽出物をとりだすことに成功し、 ミミズと同様の効果を上げるようにしたそうだ。