4.二・二六事件と岩畔
―情報の道へ―
やがて、二・二六事件が勃発する。軍務局御用係として対満事務局で背広姿で満州国の経済事務を扱っていた岩畔に大きな転機が訪れた。
兵務局への異動命令が下されたのである。当座の仕事は、兵務局課員として二・二六事件首謀者の裁判を円滑に運ぶことだった。
もともと、兵務局の主務は、憲兵隊業務をはじめとした警察及び防諜関係の仕事であり、これまで経済に偏っていた彼の仕事はここにきて情報へとその向きを転じる。
「物」と「情報」。
現代でこそ、「戦略」の要(かなめ)として最重要視される分野だが、当時の陸軍にあってそれらはエリートの仕事ではなかった。陸海軍ともに、当時の軍人にとって作戦立案こそエリートの仕事であり、その最高峰が参謀本部作戦部だった。
岩畔が、そうしたエリートコースでなく、こうした道に入り込んだのも学科の勉強より自己流の内面的錬磨を重視した結果、典型的な学校秀才ではなかったため かもしれないが、彼の天性の才能はこうした分野においていかんなく発揮され、やがて、省内で独自の評価を勝ち得ていく。人生とは不思議なものである。
後に、兵務局から参謀本部へ移った岩畔は、創設されたばかりの防諜、諜報を担当する第8課の課員として、日本で初めての本格的スパイ学校、陸軍中野学校を設立する。
彼が対米戦に命がけで反対した裏には、こうした勤務を通じて得ることのできた、物や情報に対する彼一流の見識があった。
この頃の彼のエピソードをたどってみよう
―二・二六事件―
1936年2月26日。
対満事務局に出向していた岩畔はその日も背広姿で事務をとっていた。
事件が勃発すると、岩畔は直ちに憲兵隊司令部に入っている。
そこで彼は、外界の混乱をよそに勅語を執筆していたという。
「国策風作文起草の才幹において、当時の陸軍中堅層で前後に比類なかった」(※12)
と形容された岩畔が書きあげた勅語、勅令は数知れなかった。幼少時から漢籍に親しんで磨き上げた文才がそこには生きていた。この時、彼の書いていた勅語がいかなるものかは定かではない。
憲兵隊司令部に篭もり勅語を書き続ける岩畔の目の前で、中央の空気は刻々と変化していった。後に軍務局長として岩畔と共に日米交渉を推進する立場になる武 藤章が、やはり憲兵隊司令部に陣取っていたが、当初より事件を反乱と断定し断固とした対応を要求した武藤が事態の収拾に果たした役割は決して小さくなかっ たという。
一方、夜中の2時頃になって「真っ青な菜っぱのよう」な顔色をして憲兵隊司令部に現れたのは、陸軍大臣・川島義之であった。
「人間にこんな顔色があるのか」
と、岩畔が驚いたというから、川島のあわてふためきぶりは尋常ではなかったようである。
対満事務局にもよく顔を出していた川島だったが、
「兵隊の頭をよくするために碁や将棋をさせなければならん」
などと真顔で話し、自らも頭の体操として碁や将棋に凝っていた岩畔でさえ、
「こんなことをまじめに言うような人が陸軍大臣でよいのだろうか」
と呆れたという。
一方、地方に駐屯する各連隊も、帝都異変の報に接し、さまざまの反応を見せたという。
「コレヨリ連隊ヲ率イテ上京、決起部隊二合流セントス」
そんな電報を打ってくる者がいるかと思えば、
「カヨウナ行動ハモッテノホカ、厳罰ヲモッテ処スベシ」
と言ってくる者もいた。
「オミマイ申ス」
とだけ打ってきて洞ヶ峠を決め込む者もいたという。
「人間こんな時でないと、その本性は分からない」
岩畔の偽らざる実感だったという。
戦後、もし二・二六事件に加わっていたならどうしたかと問われた岩畔は、「もし自分ならばラジオなどマスコミを利用してもっと全国的規模で行っただろう。 新聞社の輪転機に砂を撒いたりしているが、そんなものはすぐに復旧されるのだから愚の骨頂である。銃剣を突きつけて、自分たちの主張を書かせた方がいい」 と語ったという。
―岩畔が担当した軍法会議―
二・二六事件終息後、事件処理の軍法会議は岩畔の担当になった。
国家と陸軍の威信をそこなうことなく、事件に幕を降ろすこと。それが兵務課に課せられた任務であった。
弁護人もつかないまま行われ、「暗黒裁判」との評価もあるが、もともと日本陸軍の軍法会議ではこうした軍事犯に弁護人はつかないことになっており、この時だけ弁護人がつかなかったというわけではなかった。
「暗黒裁判ではあったが、峻厳に行くのか行かないのかという方針こそ大事な問題だった。それさえ決まれば自動的に裁判の 結果は行くべきところに行っただろう。誰が裁判長をやっても同じことだった」
岩畔は後にそう述懐している。
決起2日目に「決起部隊」が「反乱軍」と呼称を変えた時点で、彼らの運命は既に定まっていたわけである。
政治においては時に、「血を持っても購わなければならない」問題が起こることは認める岩畔だったが、それは決して性急に自ら求めるものではなく、時が来れ ば自ずと道が指し示されるものだというのが岩畔の考えだった。二・二六事件のように平地に波乱を起こすやり方には共感できなかったという。
「粛々」と進められた裁判は峻厳な判決を導き出した。
「革命とは暗殺に継ぐに暗殺をもってする人事の異動なり」
そう言って、あからさまな人間軽視の思想を唱えた磯部浅一や、事実上、実行犯であった西田税に対しては峻厳な刑もやむを得ないと思った岩畔だったが、北一輝に対しては同情を禁じ得なかったようである。
思想的な影響を与えたという点では大きなものがあったが、実際に北は事件に直接の関係はなかった。そのことを岩畔はよく知っていた。
一方、ただ言われるままについていったため、その運命を狂わせた若く前途のある将校たちも処刑リストには大勢入っていた。 岩畔は、いよいよ処刑の迫った彼らに最後の手記を書かせている。せめてものはなむけのつもりだったという。
集められた手記は金襴の表紙がつけられ、金庫の奥深くしまわれ、終戦後、岩畔がビルマから戻ってくるまでそこで静かに眠っていた。
晩年、インタビューを受けた岩畔は、
「自分はいろいろ悪者のように言われているが、彼らの手記を皆さんが今読めるのは私のお陰ですよ」
と笑ったという。
いよいよ処刑が迫った時に北一輝が垣間見せた興味ある人間像も岩畔の目は見逃していない。
「足が地に着かない」
という言葉があるように二・二六事件首謀者の多くは、いよいよ刑場に赴く時、恐怖のあまりつま先だけが地面を踏み、かかとが浮いていたという。
しかし、北だけは違った。彼のかかとはしっかりと地面を踏んでいた。
射手の前に正座した時も、
「キリストのように十字架に架けられるのかと思っていましたが、この方がいいですね」
と、恬淡とした態度は変わらなかった。
不用であると一旦は目隠しを断っているが、
「皆がするから、しなさい」
と看守に勧められると、
「そうですか」
と素直に受け、こだわりはなかったという。
しかも、その時の笑顔は決して作り笑いでなかったようだ。
「笑いの筋肉が動いているのだよ」
岩畔はそう表現している。
「こんな人でも殺すのか」
その時受けた感動を、何十年も経っても岩畔は昨日のことのように語っている。