6.歪められた「戦陣訓」
―勅令の起草も―
少年時代から漢籍に親しんだ岩畔は、独特の文才を発揮し、勅令の起草を命じられることが多かった。
組織は、規則や命令といった「言葉」をもって動かされる。言葉を自由自在に操る岩畔が、能吏として頭角を現したのも自然な流れだった。
有名な「大東亜共栄圏」という言葉も、彼と後輩の堀場一雄で作ったという。その頃既に、石原完爾が東亜連盟という結社を作って「東亜」という言葉が人口に 膾炙(かいしゃ)していた。東亜だけでは範囲が狭いので「大」をつけ、軍事的な制圧でなく経済的な繋がりであることを正面に出すため「共栄」という言葉を もってきたとされている。
―戦陣訓の真実―
「生きて虜囚の辱めを受けず」
捕虜となることを禁じ、多くの日本兵に自決を強制したとして悪評の高い戦陣訓であるが、戦陣訓そのものは岩畔が提唱したものだった。
しかし、自決を推奨するこうした条文は岩畔が意図したものではなかった。彼が意図したのは分かりやすい言葉で具体的に書かれた「戦場心得」だった。
当時、膠着状態に入り戦況の思わしくない中国戦線では、兵士の心がすさみ、放火、略奪、婦女暴行といった不祥事が度重なるようになっていた。
中国戦線を視察し軍紀建て直しの必要性を痛感した岩畔は、教養のない兵士でも分かるよう、平易な言葉で「盗むな」「殺すな」「犯すな」を徹底させようと考えた。
「強姦してはならないなどとは、とても勅語に書けない」
勅語ではなく別の形式。そこに戦陣訓という言葉が生まれた。
陸軍首脳部は予想以上に彼の提案を歓迎した。しかし、話は彼の当初の意図と離れ、まったく違った方向に進んでいった。 基本的な規律の徹底は盛り込まれたものの、「生きて虜囚の辱めを受けず」 に始まる古典的な精神主義ばかりが前面に押し出されてきた。(※16)
戦陣訓に関して非難されることの多い東条英機であるが、岩畔に言わせればそれも誤解だという。起草のため名文家として名高い浦部彰少佐を前線から呼び戻し たり、文豪・島崎藤村や作詞家の土井晩翠まで動員して、東条自身随分とご執心ではあったが、その大枠は前任者の板垣(征四郎)陸相、阿南次官のもとで既に できあがっており、起草作業が長引いたため東条は最後のところで引き継いだだけだという。
―ノモンハンの惨敗―
日本軍がソ連軍に赤子のように蹴散らされたノモンハン事件だが、陸軍上層部にあって唯一、関東軍の独断的な軍事行動に反対したのが岩畔だった。
もとはと言えば地図の不備が紛争の原因だった。
ロシアと日本、それぞれの地図で国境線が一里ほど食い違っていた。その一里をめぐって血みどろの戦いを繰り広げたというわけである。広大な砂漠の一里である。
「どっちに譲ったっていい」
そう思った岩畔は関東軍がノモンハンに入ると同時に、陸相をはじめ、あらゆる方面に働きかけ関東軍を撤収させようとした。
「ゴビ砂漠の一角に、なぜかような大兵力を投入しなければならないのか」
映画『戦争と人間』(山本薩夫監督)は、板垣陸相たちを前に堂々と反論を繰り広げる岩畔の姿を描いている。しかし、陸相としても辻政信をはじめとした参謀本部エリートたちの意見を聞かないわけにはいかなかったようで、岩畔の意見は却下されてしまった。
兵団の増派要求に、
「不同意ではあるが、これでうまくいかないのなら下がる、というのであれば認めよう」
と、条件をつけた岩畔だった。が、戦闘が始まると岩畔の元に情報は全く入って来なくなった。仕方がないので部下を送って様子を聞かせても、教えてくれない。それもその筈で、その頃、ノモンハンで関東軍は機械化されたソ連軍の前に完膚なきまでに叩きのめされていた。
まさにその1年前の張鼓峰事件(1938年、やはりソ満国境で起こった国境紛争)の再現だった。参謀本部作戦室に教訓を教訓として受け止める賢明さは欠けていた。
戦いの帰趨(きすう)が明らかになってからの岩畔の行動は迅速だった。
直ちに、紛争を「外交」に移すよう政府に要請すると(張鼓峰事件では、当時の駐ソ大使・重光葵がノモンハン事件の時は駐ソ大使・東郷が外交解決に当たっ た)、自ら現地に飛び、部隊の撤収と負傷者の引き上げのため陣頭指揮に当たった。必要な予算の手当も怠りなかった。
一方、事件の張本人である辻政信の姿は既にそこに無かった。敗残の部隊を放り出し、「転戦」していったというのである。
多くの現場指揮官が責任をとらされ自害に追い込まれた一方、張本人である辻に対する処分は実に甘かったという。そこには、岩畔にも計り知れない陸軍奥の院、参謀本部作戦参謀たちのかばいあいがあった。
―小大臣―
満鉄改組、ノモンハン事件と思い通りにならないこともあったものの、岩畔にとって脂の乗りきった時代が続き、軍事課長として辣腕をふるう彼を、人は「小大臣」と呼んだ。
しかし、彼に対する反発も水面下で徐々に大きくなっていったようである。
「支那問題に詳しい者を補佐として派遣して欲しい」
駐米大使・野村の要請に応えて陸相・東条が岩畔を選んだのは「体のいい左遷」であった。
野村の依頼をいいことに、目の上のたんこぶを軍事課長という要職から追放したというのである。一説によると、赤坂の出入りが多かったのが東条の気に障ったともいう。
もちろん、これらは全くの憶測にすぎないわけで、この人事の裏にどんな事情があったのか、今となっては定かではない。
むしろ、彼の米国派遣が「左遷であった」とか「いや、そうではなかった」と論じられることの方が興味ある事実ではないだろうか。