4.表舞台に躍り出た『諒解案』
―3人の愛国者―
こうして日米諒解案は、双方の思惑を取り込みながら急速にその姿を整えていった。作業に取りかかって、たかだか2週間のことであった。
いくら非公式で仮のものに過ぎないと言っても、複雑な事情を抱えた2国間の調整が、これだけ短時日でまとまったことに、当事者である岩畔自身驚いたという。
機は熟していたのである。
しかし、大事な問題がまだ残っていた。どうやって、まだ「私生児」にすぎないこの諒解案を、外交の表舞台に引っばり出すかである。
しかし、野村や岩畔が考えあぐねるまでのこともなかった。
4月16日、突然、公式会談を求めてきたハルはこうきり出した。
「今日のように日米関係が険悪な状態にある時は、日米両国政府、どちらにしろ、国交回復のイニシアチブをとることは適当ではない。しかし、幸いにも3人の愛国者によって作成された試案がある。その試案を基礎として、日米両国はこれからの交渉を始めてはどうか」
まさに、千両役者の風格であった。思案にくれていた野村は欣喜雀躍した。
カールトンホテルでの夜這いもどきの密会といい、このたびの件といい、この時期の日米関係は常にハルがリードしていた。寸刻もむだにしないハルの申し出は、アメリカが「諒解案」にいかに積極的であるかを如実に示していた。
ハルは、日本政府がこの諒解案にどのような反応を示すだろうかと野村に問うた。
「まだ、本国政府には送っていませんが、政府もきっと同意することと思います」
野村は自信をもって答えた。
満足げに聞いていたハルはある条件を付け加えた。
「できるだけ早くこの試案に対する日本政府の正式意見を承りたい」
回答が「トゥー・レイト(too late)」であっては困ると言うのである。
ペリー来航以来、アメリカと日本が接触する度に飛び出すこの言葉はここでも出てきた。
しかし、この時の「トゥー・レイトになっては困る」 の真の意味が分かるのは、もっと後になってからだった。
ここで、後に戦後の日本で問題にされたある事柄が1つ発生している。話の展開からは逸れるが読者の理解を助けるために記しておく。
この時、ハルは、
「すべての国の領土と主権の尊重、内政不干渉、すべての国の平等の原則の尊重、太平洋の現状維持」
という4原則に関しても同時に念を押したという。
見て分かるとおり、どれをとっても一般論である。「日米諒解案」にはこれらの原則がさらに具体的に盛り込まれているわけで、言葉を改める必要性さえない。
しかし、戦後、4原則に関して野村が本国に報告をしていなかったということが大きな問題とされることになる。報告に不備があったというのである。
日米諒解案を結局反故(ほご)にして日本を戦渦に投げ込んだ外務官僚としては、「4原則」の報告がもれていたと野村を譴責し、自分たちの責任は回避したいということである。
―日本へ打電―
それはともかく、喜び勇んで大使館に帰った野村は、ハルとの会見内容を幹部に告げた。
「これで、天皇陛下との約束を果たすことができる」
律儀な野村にとって、天皇からの直接の下命がどれほどの重圧となっていたかは想像にあまりある。集まった大使館幹部も、当然のことながら、事態の展開を喜んだ。
満州の扱いに関しても具体的に記された日米諒解案は、誰が見ても日本にとってきわめて有利なものであった。出発点がこれだけ有利であれば、たとえ日米首脳会談が始まったとしても、先の心配はそれほどない。
「交渉はまとまる。戦争の危機は去った」
誰もがそう思った。
日本政府の承認が遅れるようなことがあってはならないと、陸海軍それぞれの駐在武官からも、ことがいかに急を要するかをそれぞれ本省に宛てて打電することが申し合わされた。
「トゥー・レイトにならないように」その言葉が皆をせき立てた。
一方、それまで井川の行動を批判的に見ていた大使館職員たちの中には、「きっと(外務省)本省は関心を示さないであろう」としたり顔に予想する者もいた。
その後、ワシントンからの電報を受けた外務省本省の上を下への大騒ぎは行き過ぎとしても、日米諒解案の意味するところやその重要性すら分からぬ者、つまり政治感覚欠乏症患者が大使館員としてワシントンに駐在していたということである。
その晩、日本大使館では夜を徹して日米諒解案の暗号化作業が行われた。電報の起草は若杉公使の担当だった。暗号化された電文はRCA(アメリカの電信会社)から打電されている。
―大きな波紋―
「諒解案」の打電作業は、翌17日朝まで続き、それを受けた外務省では暗号解読が進むに従い、次第に大きな波紋が広がっていった。
松岡外相は訪欧中である。外相の留守中は、総理である近衛が兼摂大臣として外相権限を有する。松岡のこの訪欧自体、野村らが、「日米関係打開に悪影響を与える」として、日米交渉に目途がつくまで延期するよう要請していたのを押し切ってのものであった。
電文が伝える思いがけない事態の展開に驚いた大橋外務事務次官は、近衛総理のもとへ走った。時ならぬ報せに近衛は閣議を中断して出てきたという。
同時刻、陸海軍両省にもワシントンのそれぞれの駐在武官からの報告が入電していた。
日本の中枢に大きな衝撃が走り、さまざまな思惑を生んでいった。
陸軍では、武藤軍務局長から報告を受けた東条陸相は、「また岩畔の大風呂敷ではないのか」と訝(いぶか)りながらも、直ちに「日米諒解案」推進方針を打ち出した。(※6)
武藤の適切な助言があったと思われる。
一説によると、武藤は、「この間まで3国同盟を推進していた岩畔が、今度は日米復交を言い出している。こんなことをしていいのか」と訝ったというが、これ も武藤のその後の関与を見れば、為にする話としか思えない。現に、武藤は直ちに感謝の返電さえ送ったという。(※7)
一方、海軍は奇妙な動きをしたという。
穏健派の反対で実行には移されなかったものの、海軍省軍務局長・岡はワシントンの横山駐在武官に宛て、「それ以上、交渉には深入りせぬように」と、命令を発しようとしたという。
児島裏著『開戦前夜』は、これを、開戦機運の高まっている時、下手に交渉するとそのまま戦争にもつれ込んでしまうかもしれない、海軍はそれを恐れたと説明している。
しかし、関係が悪化しているからと言って交渉を放棄しろというのも無責任な話ではある。
むしろ、これは当時、海軍が外務省と連動して日米交渉を阻害しようとしていたと考えた方がよいであろう。
ワシントン駐在の海軍武官・横山一郎のもとには、早くから、岩畔、井川の行動を監視し牽制するようにとの指令が届いていたという。(※8)
日米諒解案が日本に伝えられるや、海軍省はその報せをドイツを含めた各国の駐在武官に打電し、横山らはドイツなど枢軸国に駐在している武官たちから次々と 入電してくる「けしからん」という抗議の電報の対応に追われたという。日米開戦を念頭に置いた海軍の中に、和平工作を毛嫌いする者が大勢いたことは間違い ないようである。
軍人というものは戦争の準備をするうちに、「戦争はある」と考え、やがて「なくてはならない」と考えるようになるものらしい。 組織の性(さが)がそこには あった。日露戦争以来、晴れの舞台を求めてきた海軍軍人にとって、戦争への期待は大きく膨れ上がっていたのかもしれない。
―統帥部連絡会議―
諒解案が入電した日の午後8時、さまざまの思惑が渦巻く中、非常時における日本の最高議決機関、政府統帥部連絡会議が召集された。
陸軍の武藤軍務局長は、一刻も早く「日米諒解案」を承諾するよう要求した。岩畔からは「事態には一刻の猶予も無い」という報告が届いていた。
陸軍では、既に、午前中に開かれた省内首脳会議で原則的に受諾の方針が決定していた。(※9)
当初、一部に不穏な動きがあったものの穏健派が押さえきった海軍からも、表立っての異論は出てこなかった。
日米間の緊張緩和の予感に、出席者全員の間に安堵感が漂っていた。後は、決議を出すだけであった。外相不在とはいえ、近衛が兼摂大臣の権限を発動して決定するに違いない。誰もがそう思っていた。
しかし、近衛は決断を下さなかった。
近衛にも、諒解案が日本にとっていかに有利かということは分かっていた。彼の決断を阻んだのは松岡に対する畏れだった。
天皇の意向に逆らってまで松岡を閣内に取り込んだ近衛であるが、それがまさに自縄自縛となった。武藤をはじめ、居並ぶ日本の首脳たちはがっかりしたが、日本の命運がここで大きく変わってしまったことに気がつくのはもっと先のことになる。
結局、この日の会議で決まったことは、日米諒解案に対する方針決定は松岡の帰国を待って行うということと、帰国を早めるよう松岡に連絡を取るということだけだった。
思いがけない停滞に焦った武藤は、松岡のため陸相専用機を大連まで迎えに出すことを提案した。皮肉にもこの時点で和平の推進に一番熱心だったのが陸軍だったということになる。
松岡への連絡は近衛の役目となったが、松岡の逆鱗に触れることが怖かったのか、近衛は、結局、松岡の帰国まで何も説明しなかったようである。
既に、松岡と近衛とは主従が逆転し、しかも、その距離は大きく開いていた。