イワクロ.com〜かくして日米は戦争に突入した〜

目次

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  • まえがき
  • プロローグ
  • 第一章
  • 第二章
    • 1.悪化する一方の日米関係
    • 2.二神父の来日
    • 3.シナリオ
    • 4.多彩な登場人物
    • 5.岩畔に下された渡米命令
    • 6.【第二章】参考引用文献
  • 第三章
  • 第四章
  • 第五章
  • あとがき
  • 参考文献
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第二章「風雲急を告げる日米関係」

2.二神父の来日

―二人のアメリカ人―

 「昭和15年末米国よりメリノール派の牧師ビショップ・ウォルシュ及びファーザー・ドラウト両名来朝し日米国交打開の可能性に付打診せること有り」(外務省編「開戦前に於ける日米国交経緯概説」)
 昭和15年11月25日―― 。
 2人のアメリカ人神父が横浜港に降り立った。
 カトリック.メリノール派の神父ウォルシュとドラウトである。乗船は日本郵船新田丸。
 港には同派の京都教区長バーン司教と、熱心なカトリック信者として「軍服をまとった修道士」の異名をもつ山本信次郎予備役海軍少将が出迎えた。カトリックの海軍将校として独特のスタイルで国際交流に身を挺してきた山本であるが、翌々年、他界している。
 挨拶を終えた一行が向かったのは同夜の宿舎・帝国ホテルだった。
 その晩、2人を迎えて歓迎会が催されている。(※1)
 翌26日、長旅の疲れもものかはと、2人の姿は外務省にあった。アメリカ局長寺崎太郎への表敬訪問だった。

―メリノール派―

 メリノール(Maryknoll Missionaries: Maryknoll Foreign MissionSociety)とは、アジア地域教化のため、1911年ジェームス・A・ウォルシュ司教とフレデリック・M・プライス神父により創設されたカトリックの 海外伝道組織である。機構上はバチカンの直轄ということになり、アジア各地へ派遣する司祭の養成が目的であった。入会にはアメリカ国籍を有することが条件 とされていた。
 ニューヨーク郊外に設置された本部には、宣教師養成のための学校が併設され、辣腕をもって知られる事務総長ドラウトのもと、近代的かつ合理的な運営がなされていた。
 後に、メリノール本部を訪れた岩畔は、教団の活動資金が株式市場で運営されていることを聞かされ、大いに感心している。
当時、既にルーズベルト大統領の厚い信任を得ていた教団の創始者ウォルシュ司教は、温厚篤実をもって知られ、文字通りアメリカの精神的リーダーであった。

―多忙なスケジュール―

 約1ヵ月間、両神父は寸暇を惜しんで日本の各界要人を訪問して回った。 以下に、示すのはその行動日程である。
 松岡洋右外相をはじめとして、その側近である外務官僚グループの名前も数回にわたって登場している。
 松岡外相私邸での昼食、汎太平洋倶楽部での講演、星ケ岡茶寮での昼食会には外務省若手グループが寄り集っている。夫婦そろってカトリック教徒だったという寺崎アメリカ局長に至っては婦人を交えての食事を含めると4回も顔合わせしている。
 後に、神父たちや井川、岩畔の行った和平工作を、民間人が出過ぎたまねをしただけとその意義さえ否定した外務官僚たちだったが、念が入りすぎるほど何度も顔合わせしていたことが分かる。全く無意味な講演会や食事会に出席するのが外務官僚の仕事なのだろうか。

 「両神父訪問スケジュール」

11月25日
横浜着。Byrne師出迎え。帝国ホテルでレセプション(山本信次郎)。Marella教皇使節を訪問。
26日
土井大司教、Lemieux師来訪。寺崎氏を外務省に訪問。
27日
聖心会のMeyer’Britt来訪。沢田夫妻を訪問。
28日
『夜明け前』を観劇。
29日
Byrne師京都へ。東京倶楽部で昼食。(郷氏とGorman師)。
30日
沢田家で夕食(沢田節蔵、Marella、土井、田口師)。
12月1日
『百人の男と一人の少女』観劇。
2日
シスターGemmaとRoseAnn来訪。雅叙園でパーティ(青沢、山本、田中、長江)。
3日
寺崎夫妻と夕食(川村〔茂久〕夫妻・Miss Argall)。
4日
上智大学の Kraus 師来訪。
5日
西国寺公葬儀。小高〔親〕氏とその息子 Bernard と散歩.松岡外相「忘れることのできない」見解開陳。岩下師逝去。
6日
寺崎氏と「教会問題」に閑して話し合う.上智大学で夕食(教皇使節).肺炎で、青田〔寛  〕死亡〔著者注:2日の間違い〕。
7日
朝九時発で京都へ。Japan News Week のインタヴュー。
8日
名古屋教区長就任式。
9日
夕方5時20分東京着で帰る。
10日
Drought師の父逝宅。大橋次官主催の夕食会(沢田・山本・寺崎・Terrapin, Sauterne’ Henry Clay)。
11日
村田省蔵氏を訪問。イユズス会のElyenbosse師と夕食。
12日
「国際電信電話」の  Mr.C.C. Chapmanと話す.
13日
ホテル(「帝国」)に。
14日
Pauline Houghton と沢田氏来訪。
15日
聖心でミサ.Kaschmitter 師来訪。
16日
駒沢でゴルフ (Pan Pacificの Mr. Tomimori と小高氏).
17日
聖心でミサ。井川と沢田両氏来訪。
18日
駒沢でゴルフ(ChapmanとHoward Voight)。深井英五氏に会う。アメリカソ・クラブ(Mr.Grinnellと, Wills, Rush)。
19日
「日米協会」の昼食会で演説。その席で出淵・須磨・栃木・鹿野(シカゴ〔総〕領事)・堀内夫妻・樺山伯等に会う。
20日
「汎太平洋倶楽部」で演説(加瀬・堀・Miss Darrow, Miss Wills, 井上子爵)。午後Byrne師来る。
21日
「星ケ岡茶寮」で昼食(沢田・寺崎・川村・小日山・加瀬・平沢)。夕食は大橋、山本等と。吉田夫人より電話。
22日
山本信次郎と打合せ。
23日
松岡外相私邸で昼食(松岡・井川・深井・沢田・若杉・平沢・長谷川)。「星ケ岡茶寮」で夕食(井川・鈴木夫人)。
24日
Agatha とMonica初見来訪。
26日
グルー大使を訪問。掘内夫妻と茶会。夕食会(山本・吉沢・長江・Gorman)。
27日
昼食会(土井・渋谷・沢出各師、山本・沢田・書沢・長江・川村夫妻)。吉沢家を訪問。井川氏に同行して武藤軍務局長を訪問。
28日
近衛家へ、秘書に会う。近衛公不在。横浜へ。「新田丸」午後三時出航。須磨氏同船。

(『井川忠雄 日米交渉史料』より)

―認識のギャップ―

 当時、日米関係が危機にあったとは言え、「戦争も辞さず」とか「バスに乗り遅れるな」というような言辞を弄していたのは一部の者に限られていた。
 各界の指導的立場にいる者にとって、国力の隔絶した日米間の戦争など想像もできないことだった。一抹の不安を抱きながらも、誰もがいずれ日米関係は好転すると信じていたという。
 この時、松岡洋右も両神父を相手に日米国交回復を自信たっぷりに語ったという。彼の方策がどのようなものであったか、その後の展開が示すことになるが、神 父たちは日本外交の代表者が意外に日米国交回復に熱心であるとともに楽観的であることに驚いたようである。悲壮な覚悟の両神父としては拍子抜けすると同時 に、本当に期待して良いものかどうか判断に苦しんだことであろう。
 松岡をはじめ日本の外務官僚らは、日米間に生じた軋轢の重大性をまだ認識していなかったようである。京都産業大学教授・須藤眞司氏言うところの、「日米間のパーセプションギャップ(認識のギャップ)」はここに既に始まっているようである。
 その証拠に、両神父は決して儀礼的に日米友好を勧進して回るために、わざわざ来日したのではなかった。
 彼らの胸中には、より具体的な戦争回避策が秘められていた。
 訪日に当たって何通かの紹介状を携帯してきたドラウトであったが、その中の1通がアメリカのユダヤ財閥系金融会社クーンレープ商会の支配人ストローズによってしたためられた産業中央金庫理事・井川忠雄宛のものであった。
 ドラウトは来日するとすぐ、井川宛に面会を求める手紙を投函した。
 かつて大蔵財務官としてこューヨークに駐在していた井川にとって、ストローズは知らぬ仲でもなかったが、初対面のドラウトがうち明けた話は彼を仰天させたという。
 話の内容は以下のようなものだった。
 このまま行けば日米関係は悪化の一途を辿り、いずれは戦争に突入する。それを回避するためには、日米両国首脳を1つの交渉のテーブルにつけなければならな い。しかし、ここまで関係が悪化し両国世論が互いに過敏になっている状況では交渉にある程度の「見込み」と「形」が出てくるまでは、水面下での話し合いが 必要である。
 自分たちは既にアメリカ政府高官と接触し、密使としてその意を受けている、ついては井川にも日本政府の信任を取りつけて日本側の代表として働いてほしい。
 神父たちの話はだいたいそういった内容であった。
 最初は半信半疑だった井川も、両神父のバックにアメリカ政府高官が控えていることを聞かされると、神父らの計画に賭けてみようという気になった。
 戦後、政治家として活躍した井川には、多少の山っけがあったことは間違いないようだが、多くの人命を救う戦争回避に純粋な気持ちで燃えたことは、その後の彼の行動が十二分に示している。

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