4.多彩な登場人物
―井川忠雄―
神父たちの申し出を受け入れた井川忠雄だったが、実際のところ、彼には神父たちの要望に応える力はなかった。
かつて大蔵省に勤務していた時でこそ、蔵相・高橋是清にも重用された井川だったが、その高橋も二・二六事件で暗殺され、今は亡い。産業中央金庫理事としての井川は全くの私人であった。
普通の者なら、いくら懇請されたとしても「自分はその任にない」と固辞するところであろうが、それを受けてしまうところに井川の独特のキャラクターがあった。
ストローズが井川の立場を誤解していたと決めつける歴史家もいるが、ストローズは長年、国際金融業界で働き、後述するように米英の諜報機関ともつながりを 持つ男である(後に米国陸軍のアドバイザーから原子力委員会委員長も務めている)。ただの誤解とは思えない。
井川がニューヨークに駐在していた時には交流もあり、どんな人間かは良く知っていたはずである。その力量を未知数としながらも、1つの可能性として井川のキャラクターに賭けたとしても不思議はない。
外交というと、官僚である外交官の専売特許と考えるのは今も昔も日本人の悪しき伝統である。型にはまった事なかれ主義を嫌う欧米では、この当時から大使と言えど民間から登用されることも多い。
また後述するように、もう1組の神父が同時期に大政翼賛会に陳情に訪れるなど側面援助も効果的に行われており、官僚外交で息詰まった日米関係に新たな息吹を吹き込まなくてはとうてい事態の打開はあり得ないと考えたストローズの周到な計画であったことが窺える。
事実、その後の展開を見れば、この人選は決して期待はずれのものではなかった。
―近衛文麿―
戦後、日米交渉では役不足の民間人と決めつけられた井川だったが、彼には成算があった。どれほどの面識があったのか定かではないが、井川は時の宰相近衛とは旧知の関係だった。
井川の話をどう受け取ったのか知らないが、颯爽としたスタイリストである反面、実に優柔不断な近衛は、井川を陸軍に振っている。
陸軍省でこの件に対応したのが、当時、軍事課長だった岩畔豪雄である。このあたりの経緯には不明な点もいくつか残っている。
「近衛から示唆されて陸軍省に話を持ち込んだ」
という井川だが、彼が神父と初めて面会したのが12月6日である。しかし、その翌日の12月7日付の井川から近衛首相への書簡では、
「陸軍省の岩畔や武藤から私人として両神父との接触を続けるよう指示されている」
と書かれており、井川と岩畔らの接触は神父と実際に面会する以前からのものと解釈できる。
この書簡では、井川と両神父が今後話し合いを継続することに関して、憲兵隊や警察の無用な介入がないよう陸軍省から指示が出されたことも触れられている。神父たちと井川の接触がそれ以前から周到に用意されたものであることが窺える。
神父が持参したというストローズの手紙も、内容は実に簡単な紹介にとどまり、とてもそこに日米関係を取り持とうというような深謀遠慮が潜んでいるようには 見えない。その後の展開を考えると、ストローズから井川にはその前の時点で既に別のアプローチがあったのではないかとも思われる。
塩崎弘明著『日英米戦争の岐路』には、このあたりの複椎な事情を垣間見せる以下のような記述が見られる。
ドラウトとウォルシュ両神父が日本に到着し、関係各方面を回っていた11月の末、もう1組の神父が日本を訪れている。2人はビンフォードとボールドと言い、メリノールとは別の「アメリカ基督友の会」に所属する神父たちだった。
彼らは、沢田節蔵前ブラジル大使の紹介状を持って、大政翼賛会の本部を訪れている。応対したのは東亜部長の亀井貫一郎だった。
彼らの話はこうだった。
基督友の会とメリノールの両教団にはアメリカ政府と密接なコンタクトを持つ者がいて、この度両教団は協力して悪化した日米国交を修復すべく両国間に話し合いの機会を斡旋したいと考えている。
ついては、現在来日中のウォルシュ、ドラウト両師が各界要人と会見を重ねているが彼らの努力が実を結ぶよう取り計らってもらいたい。
言うなればウォルシュ、ドラウトの側面援護だった。亀井は、早速、個人の資格で近衛に面会すると以下のような意見を述べたという。
彼らの言うことはきわめて妥当であり是非とも活用すべきである。
しかし、この1件に関しては自分も近衛も表に出ず、神父たちが自分の意志として井川に面会し協力を要請する方がいいであろう。井川は両神父の話を聞けば 「必ずや飛び上がって走り回る」、だからその際は近衛も「井川氏の顔を立て、又、両牧師を落胆せしめざるよう」計らって欲しい。
近衛の同意を取りつけた亀井はその足で軍務局長・武藤を訪れ、同様の説明をしたという。
要するに、井川を泳がせて話を進めようというのである。そうすれば、近衛も直接関与する危険を冒さないで済むということである。
この時点で日米交渉は、アメリカ首脳にとっても、また日本の首相にとっても、公式に関与するにはリスクが大きすぎたのであろう。
こうして見ると、井川は当初からその性格を読み切られた上で利用されていたようである。日米交渉はその最初の時点から、さまざまの思惑が複雑に交錯したものであった。
―武藤章―
武藤は岩畔の上司で軍務局長である。
岩畔が、軍務局軍事課に異動した翌年の昭和14年、中国戦線から軍務局長として着任している。「倣岸不遜」を自称した武藤に対する評価は、現在に至るも大きく分かれる。
こんなエピソードがある。
ある時、寺内寿一陸相がたまたま廊下を通りかかると、武藤が新聞記者になにやらプリントを配っている。
不審に思った寺内が尋ねると、
「ああっ、まだお渡ししていませんでしたね」
と言って渡されたプリントは、まだ陸相も報告を受けていない陸軍の新しい施策を説明するものだったという。
それでも武藤は悪びれもせず平然としていたという。
また、こんなエピソードも伝わっている。
武藤が支那派遣軍にいた時、司令部を訪れた漫画担当記者が彼と彼の上官の似顔絵を描いて見せた。
すると彼は、やにわに上官の似顔絵に「頑冥不霊」と注釈を書き込んだ。そして、顔色を変える上司を意にも介さず、自分の似顔絵には「倣岸不遜」と書き込んだ。これには上官も呆れてものが言えなかったという。(※2)
武藤が、日米交渉に積極的に参画したのには大きな理由があった。
泥沼化した中国戦線であったが、そもそもの端緒、蘆溝橋事件の折に、紛争拡大に反対だった上司・石原莞爾に逆らって積極的に戦線を拡大したのが、当時参謀本部作戦課長だった武藤なのであった。
この時、武藤は上司である石原に、
「満州事変の時にはあなたも同様の事をしました」
とまで言ったという。
まさに因果は巡るである。
しかし、武藤の思惑は見事に外れた。
意外に手強い中国国民党軍を相手に日本は好むと好まざるとに関わらず長期戦を強いられた。さらに、国際世論をも敵に回すことになった日本に茨の道が続いた。
言い逃れを潔しとしない武藤が、自分の見込み違いに心の痛みを感じていたであろうことは想像に難くない。
そんな時に出てきた日中和平と日米国交回復をセットにした神父たちの提案は、武藤にとってはまさに渡りに舟だった。成功すれば陸軍は中国の泥沼から足を抜くことができる。
神父来日の折、岩畔に斡旋されて神父たちと面会した武藤は、岩畔の渡米後も密に連絡を取り合っている。
また、神父工作が挫折し岩畔らが交渉の場から姿を消した後も、日米首脳会談実現に向けて精力的に努力を重ねた。
後に東京裁判で死刑となった武藤であるが、対米戦を真剣に阻止しようとしたのが彼だったことは皮肉な事実である。
―ドラウト―
ウォルシュ、ドラウト両神父の滞日中に、彼らを軍務局長武藤に引き合わせた岩畔だったが、その折、彼自身は神父たちと面会していない。たまたま都合がつか なかったのであろうか、あるいは、その時点では岩畔は神父たちの話をそれ程重要なものとは思っていなかったのであろうか、それは不明である。
彼らが初めて顔を合わせたのは、岩畔が渡米した後で、ニューヨーク五番街のカトリック教会でのことだったが、岩畔はこの時の2人の印象を、ウォルシュは「落ち着いた気高い人格者」、ドラウトは「達識敏腕の仕事師」と表現している。
岩畔に仕事師と評されたドラウトは、その後、英国諜報部MI6所属の諜報部員ワイズマンの文書が公けとなり、彼の背後にイギリス諜報部やアメリカ海軍情報局の策動があったことが明らかになっている。(※3)
ドラウトは、ただの坊さんではなかった。
もちろん、だからと言って彼の宗教者としての情熱が否定されるものではない。目的が純粋でも、それを達成するために、時に、世俗の奸智も必要となる。
ドラウトの目指したものが何であったか、またそれが宗教者として相応しいものであったかどうかはこの物語を読み進んで、読者自身で判断して頂きたい。
―ワイズマン―
日米交渉に登場することはないものの、重要な役割を果たした人物である。一般に知られることの少ないこの人物のプロフィールは塩崎弘明の著書(※4)から抜粋して紹介したい。
「ワイズマンは1885年2月1日、イギリス南東部のエセックス州ハートフィールドに生まれた。父親は代々の海軍軍人であって、ワイズマンは男爵位を受け 継いだ。1905五年にケンブリッジ大学卒業後、約2年間デイリー・エクスプレスの特派員を勤めた。 しかしジャーナリストの世界で身を立てることは金銭的 理由から断念し、経済界に身を転じた。1909年イギリスからアメリカに渡り、カナダで不動産業を、メキシコで牛肉缶詰業を手掛けて多少の財をなした。と りわけメキシコ滞在中に時の独裁者ポルフィリオ・デイアスの知遇を得て、メキシコ政府発行の公債業務に従事した。ワイズマンとメキシコ金融界との関係は単 にエピソードに終ることなく、その後生涯に渡って続くことになる。と同時にこれを契機に、彼は国際金融界に身をおくことにもなった。
貴族の家に生れたワイズマンは、たとえ帝国の域外にあっても常に『陛下の臣』であり、また統一党員として保守的な自由主義の立場を離れることはなかった。 ――ワイズマンは1914年の大戦勃発と同時に陸軍砲兵将校として従軍し、翌15年のフランドル戦で負傷した。回復後、父親に繋がる海軍関係者から外務省 管轄下の情報機関を紹介され、スコットランド・ヤードで訓練を受けた後、ニューヨークに赴任した。そして植民地インドでの経験しかない上司に仕えることに なったが、その上司が失態を演じた為、数ヵ月を経たところでワイズマンも責任をとる羽目に陥った。その後ワイズマンはアメリカ情報機関を再組織し、新たに 整備されたものとした。同15年12月、公式にはイギリス軍需省の購入委員会のメンバーとして、しかし実際はニューヨークにあったイギリス情報機関MI6 の最高責任者として、ニューヨークに舞い戻った。その任務は、アメリカよりイギリス本国への軍需物資輸送に対するドイツ側の妨害阻止、または大英帝国圏内 におけるドイツ側の情報工作に対して対抗工作等を行うことにあった。
またワイズマンは駐米イギリス大使館の財政顧問、イギリス大蔵省の駐米代表、イギリス軍事使節団の財政顧問等の役を兼ね、非公式ではあったが外交官の役割をも果した」
自ら舞台の上に立つことはなかったものの、この男が日米交渉に与えた影響は大きなものがあった。諜報員とは言うものの、映画によく出てくるアクションヒー ローと違って、その活動は、むしろ地味でさえある。何も知らされぬまま、与えられた任務を実行するだけの末端工作員と違って、彼の任務は、自分の地位や交 友関係を利用して、情報を集めたり、他国に於いて本国に有利な空気や世論を醸成するところにあった。
言うなれば外交官の亜型と言っていいであろう。
明石元二郎大佐以来、多少の変化はあったものの、日本の軍部ではまだ「水物」と言われ、軽侮されていた諜報工作だったが、英国ではスパイこそ「最高の知識 人」であり「最高の愛国者」でなければならないとされていた。1人の有能なスパイが、場合によって何個師団もの軍隊に匹敵するということを彼らは理解して いた。
第二次大戦中、英国のとある都市に対する爆撃計画を通報されたチャーチルが、住民の避難を行えばその情報を送ってきたスパイを危険に陥れるとの判断から、涙をのんで住民の避難を行わなかったというのは有名な話である。
話をワイズマンに戻そう。
ワイズマンは外交に関しても秀でた素養を持っており、第一次大戦後のパリ講和会議にはアメリカ問題顧問として会議に参加し、この時、彼の識見に惚れ込んだアメリカ大統領ウィルソンは英国政府に対して彼を駐米大使として派遣するよう希望している。
また、これが決してただのウィルソンの気まぐれではなかった証拠に、その後、1940年に駐米大使ローシアン卿が死亡した時もその後任として彼の名前は再び浮上している。(※5)
結局、2回ともその人事は実現しなかった。外務官僚として表に持って来るには惜しい人材と判断されたのであろうか?
2度にわたって大使への昇格(普通の価値判断では昇格だろう)を本国政府により拒絶されたワイズマンだが、その事を彼がどう思っていたかに関して興味はつきない。
大使にはならなかったものの、欧州戦争が始まってからのワイズマンは多忙だった。
この頃、彼の喫緊の任務は米英連携の強化だったという。
米英連携の強化と書くと意味はきわめて曖昧であるが、究極の目的は米国を欧州大戦に誘い込むと言えば分かりやすい。
当時、アメリカは欧州で猛威をふるうナチスの「暴虐」に、依然として傍観者としての態度を崩してはいなかった。その結果、イギリスはドイツを相手に孤独な戦いを続けていた。
果たしてアメリカは自由主義社会の戦士として助太刀に来るのか、或いは高みの見物を決め込むのか。イギリス全国民が、固唾(かたず)を飲んで見守っていた。
しかし、アメリカ国内には根強い反戦思想が渦巻いていた。
「なぜアメリカの若者を遠いヨーロッパの戦場に送り出さなければならないのか」
それは当然の疑問だった。アメリカ民主主義を「皆の衆」の民主主義と評したのは小室直樹氏だが、この当時アメリカの「皆の衆」は遠いヨーロッパのもめ事にアメリカの若者の血を流すことにきわめて消極的だった。
さらに、アメリカにとって大きな気がかりはドイツと3国同盟を結んでいる日本の存在であった。自分とはおよそ関係のない遠いヨーロッパの戦争に手を突っ込んで、その上、背中から日本に噛みつかれたのでは何をしているのかわけが分からない。
国民的英雄リンドバーグも声高らかに対独参戦に反対していた。3国同盟は、ヒトラーが計算したとおりの効果をあげていた。
そんな中、ワイズマンの頭の中では様々の計画が錯綜し、その中のいくつかは既に実行されていた。英国援助のためのボランティア組織が結成され、放送を通じてイギリスに同情的な世論の高揚が図られた。
しかし、それでもまだ足りなかった。
彼の次なる一手が何だったか、その時、彼がアメリカのどこで何をしていたかが、それを雄弁に物語っている。
なんと、この時、ワイズマンはクーンレーブ商会の取締役としてストローズと机を並べていたのである。しかも、そのワイズマンには、聖職者の友人がいた。ただの友人ではない。国際間題に関してもつっこんだ議論を交わす、いわゆる親友だった。
その親友こそドラウトであった。ここまで書けばあたかも1つの輪が繋がったような気がするのではないだろうか。
日米関係を改善すれば、アメリカは背後からの脅威から解放され、ヨーロッパ戦線に参加しやすくなる。
ワイズマンはそう考えていた。ドラウトの背後には大英帝国の思惑が息を潜めていた。
―ウォーカー―
アメリカ郵政省長官である。
神父たち言うところの、「密接にコンタクトを取っているアメリカ政府高官」とは彼のことである。
20年間にわたってルーズベルトの選挙参謀を勤めた彼は、大統領にとって側近中の側近であった。
「カトリック教徒」であることと「アイルランド系アメリカ人」であるということがドラウトとの共通項であった。自室にローマ法王の 写真を掲げるウォーカーは、英国王室の写真を飾る国務長官ハルとは好対照をなしていた。
そうは言っても、ウォーカーはハルを「オールドマン」、ハルはウォーカーを「フランク」と気軽に呼び、互いに最も信頼できる友人と公言して憚らなかったという。(※6)
郵政長官というウォーカーの役職に関して、井川は興味ある分析を記している。
全国津々浦々にある地方郵便局の局長は地域における有力者である。それだけに、それを束ねる郵政長官の政治的パワーは絶大なものになるというのである。 穿(うが)った考え方をする井川らしい分析であるが、現代日本でも郵政3事業の民営化がなかなか進まない裏には同様な事情があることを考えれば、あながち 根拠のない話ではないだろう。当時これだけの分析ができたということは、外務官僚らによって軽薄才子と評された(※7)井川という男、実際はなかなかの炯 眼(けいがん)の持ち主だったようだ。
当時、対日外交は政府関係者にとって非常にデリケートな問題になっていた。
伝統的に外交達者な中国は、学者、文化人、マスコミ人を大量にアメリカに送り込み、様々の角度から親中国世論を盛り上げていた。その成果が上って中国に対する同情が盛り上がる一方、日本の評判は湾岸戦争時のイラクのようなものになっていた。
―クーンレーブ商会―
人間ではないが、「日米交渉」を振り返ってみて、実に奇妙なのがこの会社の存在である。
神父たちに、井川に宛てた紹介状を手渡したストローズが支配人であり、ドラウトに少なからざる影響を与えたと推測される英国諜報員ワイズマンが、そのパートナーとして経営に参画している。
この会社には、ドイツ系ユダヤ人のシッフ・カーンとワーブルグ、ハノウェルという3人の有力社員がいた(ストローズはハノウェルの婿に当たる)。資本割合から言えば、実質的にシッフ家の持ち会社であったという。(※8)
そして、驚くべきことにクーンレーブ商会と日本の関係は、この時がけっして初めてではなかった。
話は日露戦争の時に遡る。
世界の超大国ロシアを相手に、東洋の小国日本は多額の戦費捻出に苦しんだ。金がなければ戦いを続けることができない。 日本はまだ現在のような経済大国ではなかった。
窮余の策として、日本政府は1千万ポンドの戦争債をヨーロッパ市場で起債することにした。
折しも、日銀副総裁だった高橋是清は、債権の引き受け先を捜してヨーロッパ金融の中心地ロンドンを駆け回ることになった。ようやく、目標額の半分5百万ポンドまで売りさばいたところで、さしもの高橋も万策つきてしまった。
しかし、そこに思いもかけぬ救いの手が差し伸べられた。
偶然のように高橋の前に現れたヤコブ・シッフという男が、残りの5百万ポンドを引き受けようと申し出てきたのである。
自ら、ユダヤの金融業者であると名乗ったシッフは、ユダヤを迫害しているロシアと戦う日本に金銭面で協力をしたいと、その動機を説明したという。
ヨーロッパ金融界に詳しい高橋でさえ、その名も知らなかったシッフだったが、約束通り、期日内に5百万ポンドという大金を用立てて見せた。(※9)
この時、シッフと高橋は偶然何かのパーティーで出会ったということになっているが、ヤコブ・シッフという男を知ればそのエピソードもそのまま受け取ることはとてもできない。
何故ならば、シッフはロシア革命の時はロシアのボルシェビキに武器を供給していたというのである。まさに、計画的にロシアの国家転覆を計っていたといっていい。
だから偶然の出会いに見えたとしても、実はシッフは計画的に近づいたものと考えた方がいいような気もする。
もちろん、高橋も実は、裏を読んでいたのかもしれない。
かつて井川が大蔵官僚として蔵相の高橋に仕えていた時のことである。ニューヨーク財務官事務所へ赴任しようとする井川に、高橋は次のように諭したという。
「現在の国際金融情勢では、ニューヨーク金融市場で日本が相手にしなければならないのは、英国系モルガン資本ということになるであろう。しかし、国際情 勢などというものは、将来どう変化するか分からないものであり、常に両天秤をかけて、どちらにでも転べるようにしておかなくてはならないものである。モル ガンを主要な相手としても、決してクーンレーブを怒らせてはならない」
かつて日本を窮地から救ったクーンレーブに対する義理立てもあったのだろうが、それだけでなくクーンレーブの怖さを高橋は十分にわきまえていたようである。
若槻礼次郎からも同様の言葉を餞(はなむけ)とされた井川は、ニューヨーク赴任後も二人の言葉を胸に置き、6年間にわたりクーンレーブとも「如才なく折衝した」という。ストローズからのアプローチもその結果であった。(※10)
ところで、ワイズマンであるが彼の名前は井川、岩畔両名が残した記録には出てこない。両名ともワイズマンの存在すら知らなかったようである。
もし、ストローズをクーンレーブ商会に訪ねていれば、ワイズマンはそこにいた筈であるが、奇異なことに、井川たちは渡米後、しばらくの間ストローズと面会していない。如才ない井川は、ストローズのため土産まで用意していったというのにである。
その理由は、ストローズにはしばらく会わない方がいいとドラウトからアドバイスされたからであるといい、ストローズがフーバー前大統領のもとで商務長官秘書を務めた根っからの共和党員だからではないかと井川は解釈している。
民主党の現政権としては、井川らが共和党のストローズと接触することを好まないであろうというわけである。
ドラウトがそこまで心配したかどうかは別として、日英密使同士の対面は結局のところ実現しなかったようである。
こうして見ていくと、クーンレープ商会という会社も実に奇妙である。「ユダヤの陰謀論」に与する気はないが、日露戦争といい、この時といい、国際的な危機に際し常に日本に助け船を出したことになる。
確かに、この当時、国際的にユダヤが排斥される中、日本だけはユダヤに友好的であった。極寒の満ソ国境で立ち往生したユダヤ人輸送列車を救出に向かった 関東軍の樋口李一郎少将の名前はユダヤ人社会では有名であるし、リトアニアのカウナスでは総領事・杉原千畝が、ナチスの「最終処理」から逃げようと必死の 国外脱出を図るユダヤ人のため、外務省の命令を無視してビザを発行し続けている(杉原は、終戦後、外務省に馘首されている)。
そうした個人的な行為だけでなく、当時、日本の軍部にはフグ計画という奇想天外なユダヤ人救出計画さえあった。満州の地に、ユダヤ人国家を建設しようというのである。もちろん、救出計画といえば語弊があるかもしれない。
世男的に排斥されるユダヤ人を大挙、満蒙の地に移住させ、ソ連との緩衝地帯にするとともに、アメリカなど欧米諸国(のユダヤ資本)を呼び込むという計画 だった。日本にとっての実利が根底にあったとはいえ、こうした発想はユダヤ人に偏見を持つ欧米諸国やイスラム国家に出てくるものではない。そう言った意味 では、まさに八紘一宇、五族共和(すべての民族は天皇のもと皆平等という思想)の思想を絵に描いたような発想だった。
その裏に何らかの商業上の利益が隠されていた可能性も否定はできないが、クーンレーブ商会のとった行動に少なくともユダヤの日本に対する好意を感じるこ とはできるであろう。少なくとも、ナチスドイツをヨーロッパから早期に駆逐し、一人でも多くのユダヤ人を救おうとしたクーンレーブの選択が、結果的にし ろ、追いつめられた日本にとって、救いの手となっていたことは否定できない事実である。
クーンレーブ商会の資料は未だに公開されていないという。(※11)