5.岩畔に下された渡米命令
―大統領もゴーサイン―
一方、横浜港から日本を後にしたウォルシュとドラウトは帰国後、郵政大臣ウォーカーの手引きによりルーズベルトに面会、訪日の報告と彼らのシナリオを説明 し、大統領の内諾を求めた。大統領執務室では2人の神父、ルーズベルト、ハル、ウォーカーの5人による密談が持たれたという。
大統領のゴーサインは出された。(※12)
この時、ドラウトの今後の活動は一切秘密裡に行われることも決められたという。ドラウトは同時期、訪日のおり世話になった元ブラジル大使・沢田節蔵宛に手紙を出している。
「機密ですので手紙を出すのを打ち切ります」
それだけ書かれた手紙を最後にドラウトからの連絡は一切途絶えたという。(※13)
年が明け、1月20日、井川の元にドラウトから一通の電報が届いた。
「アメリカ政府首脳部ノ反応ハ上々デアル、渡米サレタシ」
井川は、改めて近衛総理に事態の推移を説明し同意を取りつけるとともに、渡米した後のことをも含めて細かな打ち合わせを行った。渡米後の近衛への連絡は、ニューヨーク財務官事務所から大蔵大臣を経て行うことと取り決められた。
外務省関係者は既に井川に対し敵意に満ちた態度を剥き出しにしており、井川が渡米しても大使館の電信を使用することは困難と考えられたからであった。
大蔵省所管の財務官事務所を通せば外務省の無用な妨害を被ることもない。財務官事務所が、本省(大蔵省)との連絡に大蔵省独自の財務官暗号を使用し、通信内容も秘匿できることを、自分自身財務官としてニューヨークに駐在していた井川はよく知っていた。
松岡が井川を毛嫌いしていることを知っている近衛としては、井川と連絡を取り合っていることが逐一松岡の耳に入ることは避けたかった。
一万言就寝居士(一万言喋ってやっと安心して床に就く男という意味)というのが松岡に奉られた渾名(あだな)であった。
近衛としても、この件で松岡から責め立てられたくはなかったのであろう。日本にとって最も大事な時期に、アクの強い松岡がヒトラーに心酔し、そして宰相近衛にもそれを御する器量がなかった。
日本の悲劇はここから始まったようである。
―軍資金―
井川は、渡米の準備に取りかかった。
今と違って、一般庶民にとって海外旅行など想像もつかない時代である。その費用を捻出するだけでも大変なことだった。
井川は、近衛や産業中央金庫の総裁・千石興太郎に旅費の調達を依頼しているが、彼の願いは聞き入れてもらえなかった。
井川をバックアップするはずの近衛が資金援助を断ったのも不思議と言わざるを得ない。五摂家筆頭の近衛にとって井川1人の渡航費用など微々たるものである。
実際、近衛は当時、自分の事務所に血盟団事件で名高いテロリストの井上日召を半ば用心棒がわりに捨て扶持を払って召し抱えていた。金銭の問題ではなかった。近衛が怖れたのは松岡の不興を買うことだったのであろう。
実際、井川の旅費を陸軍省が出したと睨んだ松岡は閣議の席上、東条陸相を難詰している。こわもての陸相相手にこれである。天皇の反対を押し切って松岡を外相に据えた近衛であったが、既にこの頃には持て余していたと思われる。
思うに、井上日召にしろ松岡にしろ、自分に制御できない危険なものを取り込んでいくのが近衛の悪癖であったのかもしれない(考えようによっては井上目召の方が松岡よりまだましであった)。
この悪癖がやがて日本だけでなく近衛自身をも破滅させていく。
―許可されない渡航―
渡航の準備を進める井川に外務省はあからさまな妨害を行った。
当時、日米関係の悪化に伴い一般人の渡米は厳しく規制されていた。「日米国交調整」を渡航目的として申請した井川の渡航許可願いは当然のように却下された。
「それは民間人の仕事でない」
近衛はこの件に関しても全くと言っていいほど頼みにならなかった。彼には自分が表に立つという姿勢がまるで無かった。
しかし、万策尽きたかに見えた井川に強い味方が出てきた。陸軍にあって「謀略」を主たる任務としてきた岩畔にとって、井川1人の渡航許可をものにすることなどさほどの難事でもなかった。
岩畔は、自動車輸入を行っている日米商会社長の鈴木を井川に紹介した。
日米商会では、その頃、米国のフォードと合弁して日本フォードを作る計画を進めていた。
交渉はほとんど煮詰まっており、後は細部を詰めて契約書に調印というところまできていた。
岩畔の鈴木社長への依頼は、井川をフォード本社との最終折衝と調印を担当する嘱託として雇ってもらいたいというものであった。そうすれば、井川の渡航目的は「フォード自動車との交渉」ということになり、外務省もそれ以上文句を言うことはできない。
その後、最終的に井川の渡航目的は「米国産業組合調査並びに米同胞信用組合事業指導」となっており、その案は採用されなかったようだが、井川の渡米費用に関しても、岩畔は日米商会社長をはじめとした何人かの財界人に資金援助を依頼したという。
―松岡対東条―
しかし、こうした岩畔の関与は外務省の察知するところとなった。
閣議の席上、松岡外務大臣は東条陸相に噛みついた。
井川の渡航費用を陸軍が支出しているようであるが、まことにけしからぬ話である」
事情を全く知らなかった東条は、ただ憮然とするばかりであった。陸軍省に帰ってきた東条に呼び出された岩畔は、陸軍省としては井川の渡航に一切関与していない旨を答えた。
事実その通りであった。
財界人に井川への助勢を頼んではいるが、そうしたことは陸軍省の与り知らぬところである。
岩畔なら何とでもできた機密費を使わず、敢えて財界人に金策を依頼したのはこうしたことを予見していたからであろう。
井川の残した文書によれば、渡航費用は産業組合中央金庫の退職金を充てたことになっているが、実際にどのような金の流れがあったのかは今となっては不詳と言わざるを得ない。
東条も傲慢な松岡を快からず思っていたようで、岩畔の答えをもって松岡に強硬に反論したとされている。
―岩畔への突然の渡米命令―
こうした中、新たな展開が起こった。
岩畔豪雄に突然、渡米命令が下された。かねて、駐米大使の野村吉三郎から日中戦争に通じた人材の派遣を要請されていた東条は、武藤の勧めもあって岩畔大佐をその任に当てた。
岩畔の後年の記述によれば、この人事は岩畔にとって「青天の霹靂(へきれき)」だったという。
「東条は、岩畔が煙たくなっていた」
「岩畔には、国家革新を標榜する桜会のメンバーであるという噂が流れていた」
「赤坂の待合への出入りが多く、岩畔には私行上の良からぬ噂が絶えなかった」
等々、この人事に関して、現代にいたるも諸説は紛々としている。
しかし、2神父の来日以来、井川の相談相手となり神父のシナリオを研究してきた岩畔大佐にワシントン転任が命ぜられたのであり、「青天の霹靂」というほど意外とも思われない。素行不良の故に左遷されたというのも不自然な話である。
背後に日中戦争を日米関係とひとまとめに解決したいという、武藤の意志が働いていたと考えた方が、自然ではないだろうか。武藤は神父来日の頃から岩畔の 思っている以上に神父工作には深く関与しており、井川の渡航費用を捻出したのは、武藤だという説もある。(※14)
考えてみれば神父と武藤が面談した時、岩畔が同席していなかったのもひょっとすると武藤の差し金だったのかもしれない。
東条にとっては左遷人事だったとしても、武藤にとってはエースを現場に投入したという意味合いだったのかもしれない。
余談だが、岩畔渡米の折、同じ乗船龍田丸に乗り合わせニューヨークの帝国陸軍駐在所に赴任した新庄という主計大佐も東条に左遷されたというふれこみだったが、彼に関しても諜報員としての任務を帯びていたとする説がある。(※15)
一方、岩畔派米をもっとも喜んだのは井川だった。アメリカで国交修復工作を開始するに当たって、かつて大蔵官僚だったとはいえ、今は民間人である井川にもっとも足りないものが、公的な立場であった。
先行き心配だった井川の手に、今、陸軍省軍事課長という最強のカードが回ってきた。
一方、岩畔のほうも「左遷」を悲観して涙に暮れていたわけではなかった。
米国派遣が決まってからの岩畔の動きは忙しい。
日米関係悪化のためアメリカへの船便は著しく減少し、渡航は1ヵ月先になった。その期間を利用して、岩畔は政財官各界の名士を訪ねて回り、その意見を訊いて回ることにした。
と言ってもそれは決して単純な意味合いではなく、国内世論をつかむことが目的には違いなかったが、陸軍省軍事課長が渡米するという材料をフルに活用し、日米復交の気運を盛り上げようという目論見があったに違いない。
工作活動の始まりであった。
―松岡洋右を訪問―
彼の訪問先には外相・松岡洋右も当然のごとく入っていた。
閣議で東条に噛み付いたように、松岡が陸軍に対して疑心暗鬼を抱いていることは岩畔も重々承知していた。合理主義者の岩畔としては、松岡にも挨拶を入れ、無用の軋轢(あつれき)を解消しておきたかったのであろう。
そもそも、岩畔と松岡は以前から交流があり、松岡が満鉄総裁を勤めていた時、
「昔、満鉄を改組しようとした関東軍参謀がいたそうだが、誠にけしからん話だ」
という彼の言葉に、
「なにがけしからんのですか」
と、岩畔が応戦したこともあったものの、それでも2人は結構ウマがあっていたようである。
陸軍にあって辣腕ぶりを発揮する岩畔が、松岡にとっては何かと都合のよい存在だったこともあろう。
戦後首相になった岸信介は、松岡の甥に当たる。
松岡が、現職の商工大臣・小林一三を退けて岸をそのあとがまに据えようとした時、松岡は岩畔を呼び出し、陸軍の同意を取り付けることを依頼している。
この時のことを岩畔は、
「話だけ聞いて陸軍省に帰ってみると、陸軍は既にその方針だったので、何もすることはなかった」
と述懐している。
「あれは私の子分だったが、裏切った」
後に、日米交渉の時、岩畔に立腹した松岡はそう言ったという。
「面倒は見たが、世話になったことなどない」
というのが岩畔の反論であった。
千駄ヶ谷の松岡邸を訪れた岩畔に、松岡は近々に迫った訪欧の抱負を喋りまくった。話が途切れたのを見計らって岩畔が、
「これは推測に過ぎないのですが、外相は独伊を訪問して3国の結合を強化するとともに、その帰途モスコ一に立ち寄って日ソ不戦条約を結ぼうとしているのではありませんか」
とかねての予想をぶつけると、松岡は感極まったかのように岩畔の手を握りしめこう言った。
「良くぞ言い当てた。日米交渉はその後にする。ついては君は渡米後そのつもりで準備工作を進めてくれ」
ヒトラーと手を結び、ソ連との間には不可侵条約を結ぶことは、松岡にとって3国同盟締結以来の悲願であった。かつて陸軍が推進したものの、独ソ不可侵条約で完全に流産してしまった3国同盟を再び蒸し返した松岡であったが、彼の狙うところはソ連を取り込んだ4ヵ国同盟であった。
ユーラシア大陸を日独伊ソ連の四4ヵ国で固め、アメリカを大陸から完全にシャットアウトするという構想だった。
「心の中で一応の賛意を表した」
岩畔であったが、
「後日、彼が独伊一本槍の恫喝外交を弄するとは予想だにしなかった」
と後に語っている。
―3国同盟―
ここで、3国同盟の来歴について簡単に記しておきたい。
戦後、3国同盟は陸軍が推進したように言われるが、それは半分しか当たっていない。最初は確かに陸軍が中心となって推進したが、それはソ連を仮想敵国とした3国防共協定の延長であった。武藤や岩畔の奔走で、もう少しで締結というところまでこぎつけていたが、ヒトラーが急に独ソ不可侵条約によりソ連と手を 結んだため完全に流産してしまった。
そもそも日本陸軍は、伝統的にソ連を最大の仮想敵とし、すべての訓練はソ連を睨んでのものだった。死の彷徨として名高い、青森連隊による八甲田山集団遭難事件も対ロシア戦に備えての寒冷地訓練に於ける悲劇であり、日中戦争の引き金となった蘆溝橋事件も、中国軍の銃撃を受けた日本の部隊は対ソ連戦用の装備をつけて夜間訓練の最中であった。
独ソ不可侵条約締結の報に接し、時の宰相・平沼騏一郎がその不明を恥じ、「世界情勢は複雑怪奇」と言い残して総辞職したように、日本の受けた衝撃は計り知れないものであり、その後陸軍でヒトラーを信用する者はいなくなったという。
陸軍にとって3国同盟はその時点で終わってしまったのである。
しかし、話を蒸し返したのが近衛と松岡だった。
近衛と松岡は3国同盟を秘かに準備し、陸軍でこのことを知っていたのは、閣僚である東条だけだったという。岩畔自身も、3国同盟締結の報せに「足元から鳥が飛び立った」ような驚きを感じたという。
戦後、すべての罪科とともに3国同盟も陸軍の責任とされてしまったが、こうして見ると、日中戦争までは暴走を続けた陸軍が中国戦線で頭を打って現実に目覚めた時、新たに暴走を始めたのが日本の外交だったところに日本の大きな不幸があった。
太平洋戦争は、「外交」の暴走によって引き起こされたと言っても過言ではない。
―各界の反応―
その後岩畔は、貴族院議員・有田八郎、満州重工業総裁・鮎川義介、賀屋興宣、永野護、長崎英造、貴族院議員・青木一男といった日本の政財界を代表する錚々(そうそう)たる人物達との面会を重ねていった。
同郷の先輩だった賀屋興宣、永野護、長崎英造らは向こうから送別会を開いてくれた。彼らは、異口同音に対米戦の無謀を語り、日米国交回復を心底願っていた。まだ、日本には良識が残っていた。
変わったところでは、当時、近衛事務所に転がり込んでいた血盟団事件で有名なテロリスト井上目召も右翼の仲間たちと送別会をしたいと声をかけてきた。それで岩畔は、銀座の小料理屋に出向いている。
彼らは口々に、米英に対しては戦争で応じるよりほかに道は無いとの意見を口にした。
「ついてはあなたには、渡米して開戦の時機を見計らってもらいたい」
というのである。
「私の心の中には完壁な天皇がいる。この天皇と現実の天皇の間に食い違いが生じたら、私は自分の心の中にいる天皇の命令に従う」
井上目召のこの言葉に、岩畔は首を傾(かし)げざるを得なかったという。
―アメリカ大使館へ―
岩畔はアメリカ大使館にも足を伸ばした。
渡米前の挨拶である。同行したのは、陸軍きっての英語の使い手、手島中佐であった。
「今が日米国交回復の最後のチャンスです。大佐の健闘をお祈りいたします」
親日家として名高いアメリカ大使グルーは、心底から日米関係の行く末を心配し、その顔には悲壮感さえ漂っていた。
しかし、彼と入れ替わるように出て来た参事官のドウマンは、グルーとは全く違った典型的小役人であった。
「米国は小麦や綿花は日本にいくらでも輸出します」
だから日本に折れろというのである。
もともと儀礼的訪問ではあったが、岩畔は黙っていなかった。
「日本が欲しいものは小麦や綿花ではありません。石油や工作機械類です。米国はそうした物資の対日輸出を禁止しているではありませんか。米国がこれらの制限を解くのならば国交回復の道は開かれるのではないかと思います」
しかし、ドウマンの答えは最初の言葉から一歩も前に出るものではなかった。
「それらの物資は、今、アメリカでも不足しています。日本の要求には応じられません」
そんな誤魔化しは岩畔には通用しなかった。
「それらの物資を日本に輸出しないということは、日本を窮地に追い込み、日本をして対英米戦を決意するまでに追い込むための方策とも考えられます。もし、日米戦が勃発すれば、今、日本が欲している石油や工作機械の数十倍の量を米国は消耗することになるでしょう。それ故、日本に対する物資の輸出制限を解 くことが日米国交回復の第一歩であり、その方が米国にとってもずっと安あがりでしょう」
顔色を変えたドウマンではあったが、要領を得ないまま「日米国交の回復」のワンフレーズを繰り返すばかりだった。
「どこの国の外交官僚も慎重な事なかれ主義者で、政治感覚の欠乏症患者であるという共通点を持っているように思われた」
その後、岩畔は日本の外交官僚もドウマンとさしたる変わりはないことを、実感することになる。
―グルー大使の電報―
こうして、各方面への「挨拶回り」をこなしていった岩畔であったが、やがて面白いものを目にすることになる。
古巣とも言うべき参謀本部第8課を訪れた岩畔が見せられたものは、アメリカ大使グルーが岩畔訪米を本国に通知した外交電報だった。
アメリカの外交暗号の一部は、既に陸軍で解読されていた。と言っても、日本にはアメリカの「マジック」に担当するような優れた暗号解読機械はなかった。
種をあかせば、憲兵隊員が神戸のアメリカ領事館に忍び込んで形跡を残さないように暗号の乱数表を写してきたのである。原始的な方法であるが、相手に盗まれたことが分からなければきわめて有効である。
電文にはこうあった。
「岩畔は東条直系で陸軍きっての実力者である。陸軍が岩畔を派遣するということは好戦的な日本陸軍が対米和平を真剣に取り上げるものと思われる。ついては、岩畔に対しては特別の配慮を持って対応されたい」
この時の感想を、岩畔はこう述懐している。
「東条大臣から疎んぜられて転出を命ぜられた私を同大臣の寵児と見違えたり、或いは鈍才をもって自認する私を過大評価している電報を手にして、私は皮肉な漫画を見ているように可笑しかった」
実際にこう思ったのか、あるいは岩畔一流の諧謔であろうか。
―横浜から出航―
昭和16年3月6日、横浜の埠頭に各界を代表する100人以上の人々が集まった。埠頭に係留されている龍田丸の船室や通路には、何十基もの花輪が林立していた。
陸軍省軍事課長・岩畔豪雄の渡米を見送る人々であった。陸軍省1課長の出張を見送るには大袈裟過ぎるその熱気は、日米国交回復を願う人々の期待の大きさを如実に物語っていた。
たまたま、龍田丸には陸軍の主計将校、新庄大佐が同乗していた。
新庄大佐に関しては諜報員としての任務を帯びていたとの説もあるが、表向きの触れ込みは、支那総軍の経理部に勤めていた新庄が、南京政府の金融問題に関して東条陸相直系の顧問と意見を異にしたため、東条の勘気に触れての「左遷」ということになっていた。彼の目的地はニューヨークの武官府であった。
―案ズル無カレ―
やがて船が房総沖にさしかかると、岩畔は陸軍省宛てに1通の電報を打電したという。
「案ズル無力レ枢軸同盟ノ方針ニツキ詳細ナ訓令ヲ携行シアリ」
3国同盟をどう取り扱うかについては、細かな指示を受けている、心配するな、というような意味である。児島裏著『開戦前夜』では、実際は東条や武藤からそうした命令を受け取っていなかった岩畔の奇怪な行動として紹介されるエピソードであるが、読者はいかがお考えであろうか?
これまでの状況を考えて、多少の想像力を働かせるなら、この行動も児島氏が言うほどに不可解な行動ではない。
結論から述べると、この電文はアメリカ側に読ませるために打電されたのであろう。
前述したように、岩畔は渡米を前にアメリカ駐日大使グルーが本国に打電した暗号電報を目にしている。シベリアでは敵の大砲を逆用した岩畔である。それを考えれば、アメリカのスパイ活動を逆手に取ったとしても不思議はない。
外交とは武力を使わぬ戦いである。時に、虚々実々の駆け引きも必要になる訳で、岩畔が渡米に先立ってアメリカに自分の持ち札を大きく見せようとしたとすれば、これはなかなかの上策である。
日米間に緊張が高まっていたこの頃なら、アメリカが日本近海で潜水艦などによって無線傍受を行っていたとしてもまったく不思議はない。面と向かって相手 に嘘をつくことなく、今後の交渉に有利な情報を相手に与える事ができるわけである。岩畔ならではの奇策だった。
―ハワイからサンフランシスコへ―
岩畔の乗船龍田丸は、昭和5年に三菱長崎造船所で建造され、総出力1万6千馬力の4基のディーゼルエンジンを搭載、最高船速21ノット。インテリアはクラシックな英国調にまとめられ、日本が世界に誇る豪華客船だった。
横浜出港の10日後、龍田丸はハワイに入港した。
岩畔は新庄大佐とともに下船、ワイキキやパールハーバーの景観を楽しんだ後、日本総領事が催す歓迎会へと向かった。
しかし、会場の日本料理店に到着したところで、彼らは思いがけない出迎えを受けることになった。
そこに集まっていたのはハワイ駐在の日本の新聞記者たちだった。彼らは手に手にアメリカの新聞を握りしめ、その一面には、
「日本陸軍休戦の旗を送る」という文字が躍っていた。
今朝、ハワイに届いたばかりのサンフランシスコの新聞だという。記事はワシントン発となっており、どうやら、アメリカ政府がグルーの報告を意図的にリークしたものと考えられた。
虚々実々の心理的駆け引きが既に始まっていた。
思いがけぬ「歓迎」を受けたハワイを出航し、昭和16年3月20日、龍田丸はサンフランシスコに入港する。
船が接岸すると、待ちかねたようにタラップを駆け上がってきたのは一足先に渡米していた井川だった。
井川は近衛宛の手紙を龍田丸の船長に託している。
サンフランシスコに上陸した岩畔は、名門中の名門、ホテル・セントフランシスに部屋を取った。
「アメリカ政府の関係者が訪ねて来る」
そんな予感がした岩畔は特別に張り込んだのである。
この時、岩畔がどれほどの金を準備してアメリカへ向かったか残念ながらわからない。
岩畔としては、アメリカ政府の期待を裏切りたくはなかったのであろう。
案の定、やがてかかってきた電話が、サンフランシスコ軍管区司令官ピーク少将の表敬訪問を告げた。言うまでもなく、それは、任地に向かう一介の大佐に対しては異例の待遇だった。
政府の岩畔に対する関心を察知した米国陸軍としては、何らかの対応をせざるを得なかったようである。
―来栖三郎への工作―
その時、サンフランシスコには、任地のドイツからワシントンを経由して帰国する途中の来栖三郎前駐独大使が滞在していた。
ヒトラー、リッペントロップと折り合いが悪く任務を外されたという来栖だったが、外務省では重光葵、東郷茂徳と並んで三羽烏と称された実力者である。
岩畔は、満州重工業総裁の鮎川義介に来栖宛の紹介状を書いてもらっていた。来栖の宿舎を訪れた岩畔は、このまま米国に留まり対米交渉に協力して欲しいと頼んでいる。
サンフランシスコ上陸後、井川から、若杉公使以下、ワシントンの日本大使館職員が非協力的であることを聞かされていた岩畔は、三羽烏とまでいわれる来栖 を仲間に引き入れることにより、大使館職員だけでなく外務省本省の妨害を封じ、協力体制をとらせたいと思っていたようである。
反骨精神に富んでいると言われる来栖に一抹の期待もあったのかもしれない。
しかし、来栖は、本省からの帰国命令を盾に、岩畔の申し出に頑として応じなかった。
「もし、この時来栖氏が官僚的立場にとらわれず、米国滞留の申請をして我々と協力することができていたら、恐らく日米国交打開はもっと明朗に、もっと強力に推進せられたに違いない」
後に岩畔はそう述懐しており、この見解に対してだけは、岩畔らの日米交渉を全面否定する当時の外務官僚らも同意見であるのが面白い。
しかし、岩畔にとって来栖の意義は外務省の妨害を封じ、協力を取り付けるためのものに過ぎなかったのではないかと思われる。
実際、日米交渉から岩畔や井川が姿を消した後に、外務省は来栖をワシントンに投入するがその結果は惨憺たるものであった。
岩畔らがアメリカ国務長官ハルからきわめて好意的に受け入れられたのと対照的に、来栖の人となりはハルや米国国務省官僚から徹底的に嫌われたという。(※16)ヒットラー、リッペントロップらに嫌われたのは、主義主張のためだけではなかったのかもしれない。
―ヨセミテ公園へ―
来栖の引き留めに失敗した岩畔は、井川とともに意見調整のためと称してヨセミテ公園へと向かった。
サンフランシスコに上陸した時、井川が見せた「原則的協定案」には、日本にとっては受け入れ難い内容が盛り込まれていることに気がついた岩畔は、井川との間に意見調整の必要を感じていた。
また、それだけではなく好奇心旺盛な岩畔としては、アメリカの大自然を見ておきたいという気持ちもあったのかもしれない。
ちょうどその頃、西海岸に遊説に来ていた郵政長官ウォーカーと合流する計画をたてていた井川も、ウォーカーに急な予定変更ができたため日程に余裕ができていた。ともに大自然の息吹に触れたせいか、
「この小旅行のうちに井川君と私(岩畔)の対米意見は完全に一致した」
と、岩畔は記している。
もっとも、井川自身、龍田丸の船長に託した近衛宛の手紙に、
「(原則的協定案は)予備的非公式会話の話題とも申すべきものを拾い上げたるに止まり」
と書いているように、まだ容易に翻すことのできるものという認識であり、岩畔の意見を容れるにやぶさかではなかった。
その後も、井川は交渉のあらゆる局面に於いて岩畔の忠実な通訳兼補佐役としての立場を貫いている。彼としては、歴史的交渉のマネージャーを演じるだけで満足だったようである。
渡米に先だって、井川の芳しからざる評判を聞いて来た岩畔だったが、日米交渉に入ってからは、井川の能力を高く評価するようになっている。
―大陸横断―
ヨセミテ行を終えた2人は、神父たちと岩畔の会見をセットするため急ぎ空路ニューヨークへ向かう井川と、単身鉄道を使ってシカゴへ向かう岩畔の二手に分かれた。
岩畔に船旅の疲れが出たためという事になっているが、ヨセミテに物見遊山に出向いた岩畔が、本当に疲れていたのかどうかは疑問が残る。
想像するに、岩畔はアメリカの国土をつぶさに見ておきたかったのではないだろうか。都市や工場地帯、はたまた草原や牧場を貫いて走る鉄道で旅行すれば、その国の全体像は容易に把握できる。岩畔としては、まずアメリカという国をよく知ることが大事だと思ったのではないだろうか。
事実、汽車旅行はシカゴまでで、ニューヨークで用事を済ませ、とんぼ返りしてきた井川とともに、そこから2人は飛行機でワシントンへと向かっている。
かつて陸軍省整備局で総力戦を準備した岩畔の目に、アメリカの国力がいかに映ったか。その答えは、その後の彼の行動が如実に物語っている。
―ニューヨーク五番街の教会にて―
ワシントン入りを前に、2人はまずニューヨークに立ち寄った。
すべての発端、ウォルシュ、ドラウト両師に面会するためである。日本で、彼らと軍務局長武藤の面会を仲介した岩畔だったが、岩畔自身は両神父に会うのは初めてだった。
面会は、ニューヨーク五番街の教会で行われた。
岩畔のウォルシュに対する第一印象は、「落ち着いた気高い人格者」というものだったのに対し、ドラウトは、「達識敏腕の仕事師」であった。
初対面の挨拶もそこそこに、4人は3時間にわたってこれからどう交渉を進めていくかを話し合った。
この場で岩畔は、3国同盟に対する立場をはっきりさせている。
「日本としては日独伊3国同盟が存在する今となっては、同盟諸国を裏切ることはできない。13人目の弟子ユダがキリストを裏切った行為はすべてのキリスト教徒が憎むところであるが裏切りを憎むことはキリスト教徒ならざる我々においても同様である。従って貴殿たちが日本の3国同盟脱退を前提条件とするならば、始めから日米国交打開の可能性は無い」
アメリカが最初から日本の3国同盟脱退を要求してきては、3国同盟を推進した近衛政権の足下をすくうことになり、話は途端に頓挫してしまう。岩畔は、たとえ3国同盟から日本が脱退しなくとも、米独戦に於いて中立を維持することは十分可能であると考えていた。
そのためにも、アメリカにこれ以上「3国同盟からの脱退」を口に出して欲しくなかったというのが本心であろう。アメリカが、それを強行に要求すればするほど日本ではそれに対する反発が盛り上がり収拾がつかなくなる。キリストやユダまで持ち出して説明した甲斐があったのか、両神父は岩畔の考えに賛同した。 神父たちはあくまで現実的だった。
4人で話し合った結果、日米国交を修復するために、まず必要になってくる合意事項がリストアップされた。
・日米両国の国家及び国際観念
・欧州戦争に対する両国政府の態度
・支那事変に対する両国政府の態度と事変解決のための条件
・両国政府の通商関係改善
・南西太平洋における両国の経済活動
・太平洋の政治的安定に対する両国政府の方針
以上の6項目に関して、それぞれ試案を作成することが第一歩となった。
なにがしかのたたき台が存在しない限り、日米の首脳が顔を合わせる事はできない。少なくとも、この6項目で双方の見解を調整することができれば、話は前に向かって進むであろうというのが彼らの考えだった。
両神父に別れを告げた2人は、その日のうちに空路ワシントン入りし、今後の彼らの活動拠点となるワードマン・パークホテルにチェックインした。
このホテルには、ホテル棟とともに長期滞在用のアパート棟があり、国務長官ハルもワシントンでの居宅をそこに構えていた。まさに絶好のロケーションだった。
―思いがけない訪問者―
チェックインして間もなく、彼らは思いがけない訪問者を迎えた。
国務省のバレンタインだった。
井川はバレンタインと既に何度か面会し、面識もあったが、岩畔にとってはむろん初対面である。バレンタインは、ハルの命令でやって来たことと、今後、ハルが野村と会談する際には自分が通訳に当たることを説明した。
本来なら、中国の蒋介石政権が本拠を置く重慶の総領事として、とっくに赴任していなければならないバレンタインだが、今回の件が落着するまで赴任は延期になっているという。
駐日大使館に勤務していた時は「改造」など、難解な日本の雑誌も自由に読みこなしていたと自慢するバレンタインだったが、彼が話す日本語はさほど上手ではなかった。
駐日大使館で参事官ドウマンと面会して以来、外交官の政治感覚に疑問を抱いていた岩畔がバレンタインに下した評価は、
「好人物、勤勉家、代表的属僚型であって、何等のひらめきも感得する事はできなかった」
という手きびしいものだった。
しかし、誰にも予定を教えていなかったにもかかわらず、タイミングよく現れたバレンタインは、彼らの動向がアメリカ当局の監視下に入っている事を示していた。後の史料が明らかにしたところでは、岩畔らの行動は国務省だけでなく、FBIによっても厳重に監視されていたという。(※17)
バレンタインの訪問の目的は岩畔の首実検に間違いなく、「日本陸軍の実力者」岩畔に対するアメリカ国務省の関心の高さを物語っていた。
日米間に緊張の高まっていたこの時期、アメリカに滞在する日本の政府関係者、とりわけ軍の関係者はFBIによって厳しく監視されていた。海軍将校の中にはFBIの囲捜査にひっかかってスパイ容疑で逮捕された者もいた。
国務省は、FBIが岩畔にそうした圏捜査を仕掛けることを極度に心配していたようで、国務次官補バールは、FBIに以下のような異例の要請をしている。
「1941年4月11日付けの岩畔大佐に関する貴方の親展・極秘の手紙に御返事申し上げます。この点につきまして、岩畔大佐を慎重な監視下に置くことに反対はない旨記載されております。しかしながら、岩畔大佐に関しまして、米国にいる間に、明らかに政府あるいはいずれかの官庁の責任とされるような面倒な 事故や、なにか無礼が起らないように、特に望む次第です。岩畔大佐は日本大使館付武官補佐官であり、東京大使館かの報告によれば、彼は陸軍部内で格別な影響力をもつ立場にあるとのことです。連邦調査局の調査官が外国高官の監視をする際に、思慮と礼儀をわきまえてことに当っていることは充分に認識しており ますけれど、日本の高官の監察に閲しましては、とくにこの点は留意の程御指導願いたく思います」(※18)
国務省が岩畔に対してどれほど神経を使っていたかがよく窺える。
また、重慶総領事バレタンタインが足止めされていることから、アメリカはこの交渉にそれほど時間をかけるつもりが無かったことと、同時に交渉の妥結を前提としていることも推測できる。バレンタインの足止めは、交渉の妥結とともにその足で重慶政府(中国国民党の蒋介石政権)に決定事項を通告するためと考え られるからだ。
いずれにしても、「日本陸軍の代表者」岩畔を迎えたアメリカ側の意欲は、並々ならないものであった。