2.児島襄「開戦前夜」への疑問
―否定的なスタンス―
昭和48年に出版された児島裏著『開戦前夜』は、主題を日米交渉に据え、著者ならではの豊富な資料を駆使してその実態を赤裸々に描くものであった。
現在は何故か絶版となっているが、日米交渉に否定的なスタンスで書かれたものとしては、最も広く読まれた本であろう。
交渉が太平洋戦争の引き金になったという論調は旧外務官僚と軌を全く一にしており、野村、岩畔、井川らの行動は常に否定的に語られ、彼らの努力は色擬せたものとして描かれている。
「(岩畔が渡米して)つづいてはじめられた工作と活動は、その後の日米国交を大きくゆがめる誘引になって行く」
これが第1章の締めくくりである。
事実をまだ何も提示していないうちから断定的な結論づけがなされ、最初からある種の意図をもって書かれたことを如実に示している。
それにもかかわらず、岩畔、井川、野村の開戦阻止に向けた懸命の活動は読者を魅了し、事実のもつ説得力を如実に感じさせるのは皮肉である。著者が無理にこじつけたようなコメントがどう見ても不自然になっている。
たとえば、なかなか返事を返してこない日本政府にイライラしたドラウトが、「米国政府首脳の日米諒解案に対する支持は最高度に達しており、ハルは国務省幹 部に不満の者があるならば退職しろと言った」と言って、岩畔に日本に督促電報を打てと要求するくだりがあるが、ここで、著者の児島は、ハル長官がそんな指 示を出した事実はないとして、それは、神父の希望的観測であったと片づけている。
さらに、ドラウトを希望的観測を事実として話す性癖の持ち主であったとし、ドラウトだけではなく、岩畔、井川も同様の性癖の持ち主であったと断定している。しかしその根拠はきわめてあいまいである。
ハルがそんなことを言ったかどうかはまったく検証しようのない事柄であるし、ドラウトがそう信じていた根拠も今となっては不明である。
こうした言った言わないの問題の真相解明が非常に困難であることは、ある程度以上の社会経験がある者なら誰でも分かることではないだろうか。
―昭和天皇の発言に関して―
話は変わるが児島自身、言った言わないに関しての興味有る議論を起こしている。
終戦後、昭和天皇がマッカーサーと会見した時、
「私は全責任をとる。自分自身の運命は問題でない」
と語ったというエピソードがある。
マッカーサー回顧録に記されていたというものである。
かつて児島は、そのような発言は実はなかったというスクープを行っている。その根拠として児島は天皇とマッカーサーの会見で日本側通訳を勤めた外務官僚・奥村勝蔵のメモに、その発言が記録されてなかったという事実を挙げた。
しかし、その後、会見の時、天皇は入室してマッカーサーに挨拶をすると、直ちにその話を切り出し、その時、間に立ったのは連合軍側の通訳だけだったという話が出て、やはりその発言はあったということになった。
開戦当時はワシントン大使館員であり、宣戦布告文書の手交が遅延した最大の責任者とされる奥村は、今回もまた肝心な話は聞いていなかったようである。
しかし、考えてみれば不思議なことがある。
たとえ奥村のメモに天皇のその発言が記載されていなかったとしても、普通ならその発言がなかったという判断には至らない筈である。
なぜなら、人は聞いた話をすべてメモしてしまうとは限らない。メモになかったから発言がなかったという結論には普通なら至らない。
児島のスクープは昭和50年で、奥村他界の翌年である。想像するに、児島は奥村存命の時から、「あんな発言は実はなかった」と聞かされていて、奥村他界を契機としてそれを表に出したのではないだろうか。
開戦時、事前に受けた「待機しているように」の命令に違反し、遅刻して登庁したため、日米交渉打ち切りの通告を真珠湾攻撃に間に合わせることのできなかった奥村は、戦後も天皇とマッカーサーの会談内容を漏洩して通訳を降ろされている。
しかし、彼はその後、外交官上がりの宰相吉田茂の後押しで官僚最高位の外務事務次官まで位階を登り詰めた。
こうしたスクープをものにするため、児島も奥村をはじめとした外務官僚らと長年の信頼関係を築かなければならなかったであろう。その苦労は並大抵のものではなかったであろうが、奥村の勘違いには思いが至らなかったのであろうか?
あるいは、児島の場合、その情報元が悪かったのだろうか。
話を『開戦前夜』に戻す。そのあとがきにこうある。
「もし、日米交渉がなかったら、太平洋戦争は開幕しなかったであろうか」
問いかけの形はとっているが、日米交渉に開戦の責任があると言わんばかりである。
日米交渉の経過を客観的に見ても、野村や岩畔、井川らの努力は全く真摯なものとしか見えない。
児島の野村、岩畔憎しの感情は、スクープ情報ともども奥村勝蔵をはじめとした外務官僚ゆずりのものかもしれない。