イワクロ.com〜かくして日米は戦争に突入した〜

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  • まえがき
  • プロローグ
  • 第一章
  • 第二章
  • 第三章
  • 第四章
  • 第五章
    • 1.戦後における日米交渉の評価
    • 2.児島襄「開戦前夜」への疑問
    • 3.加瀬俊一の岩畔批判
    • 4.松岡再評価という妄動
    • 5.『昭和天皇独白録』の起こした波紋
    • 6.【第五章】参考引用文献
  • あとがき
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第五章「日米交渉の再点検」

4.松岡再評価と言う妄動

―3人への憎悪―

  こうして、岩畔らの努力は、戦後、その社会的地位を高めた外務官僚らにより否定されてしまった。おもしろいことに、旧外務官僚だけでなく、大本営系旧陸軍 関係者からも感情的な否定論は多い。無謀な作戦で多くの将兵を無駄死にさせた彼らとしては、やむを得ない戦いであったと自分に言い聞かせたいのだろうか。
 そんな中、外務省を中心として松岡再評価への動きが目立つようになった。
 「ところが60年代になって、日本国際政治学会・太平洋戦争原因研究部編『太平洋戦争への道』全8巻(朝日新聞社、1962〜63)が刊行される頃から、 「松岡外交」の復権が外務省の周辺から謳われるようになり、日米交渉失敗の原因を「N工作」、つまり野村・井川・岩畔らの工作に帰する見解が強くなった。 このようなことはアメリカ側にもいえることで、国務省が編集した『外交史料集』を根本史料として使う限り、"John Doe Associates"の活動は、本来の外交活動を逸脱するものであり、日米会談に関しても決して会談を促進させる要因にはならなかったと解釈せざるをえ ないわけである」。(※1)
 加瀬俊一の近著『日米戦争は避けられた』から、彼の岩畔、井川、野村に対する人物評を紹介しよう。
 本筋には何の関係もないが、彼らがいかにこの3人を憎んでいるかが良く分かるし、これだけの憎しみを戦後半世紀にわたって維持してきた、あるいは維持しなければならなかった背景を考えればこの間題の本質を理解する一助になるのではないだろうか。
 岩畔・・・・・・稀代の謀略家。
 井川・・・・・・軽薄才子。
 野村・・・・・・英語の下手な外交音痴。
 外務省三羽烏の1人、重光葵の日米交渉評価も紹介する。
 「日米交渉なるものは、分裂した外交によって行われ、その結果は最初から呪われたものであって、後世史家は、交渉の経過または折衝ぶりよりも、その開始せられた経緯について、批判の重点をおくものと認められる」
 これらの批判が当たっているかどうかは別として、彼らの批判や憎悪が、決して松岡外相の特異かつ倣慢な性格に向けられてないことに驚博を禁じ得ない。
 経緯を見れば、松岡に対してこそ憎悪を感じるのが普通の人間である。まして、再評価と言いつつ、戦後変わることなく賛美さえしてきたのであるから、省益の ためには絶対に自分たちの間違いを認めない官僚体質に戦懐を禁じ得ない。国益より省益を優先する「謀略」は、戦後も連綿と続いているようである。
 ここからは、彼ら3人に向けられた非難を個別に検討してみる。

―彼らに資格はなかったのか―

 確かに、井川にある種の胡散(うさん)臭さがつきまとうのは事実である。それは彼の野心や虚栄心に発するものかもしれない。岩畔自身、渡米を前に、井川には用心しなければならないという注意を何人かから受けたという。
 しかし、井川がその後、米国で行ったさまざまな努力を見れば、そこには日米戦を何とか回避したいという熱意しか感じられない。大義を前に、小さな虚栄は吹き飛んでしまったようにも思える。
 最初は用心していたであろう岩畔も、ともに行動しているうちに井川の熱意と交渉における有能さを高く評価している。
 彼に対する大使館員の反発は「民間人が外交に出しゃばるな」という差別意識に発したものであるが、野村がハルとの会見を望んだ時も何の力にもならなかった彼らに井川を責める資格があるだろうか。
 戦後、駐米大使館員の中には、「日本のような資源のない国が、アメリカのような大国を相手に戦争をするなどと思っている者は、大使館に1人もいなかった」とまで言った者もいるという。
 宣戦布告が遅れたのはそのためだというのである。
 彼らと比べれば、民間人とはいえ日米関係の現状に的確な危機意識を持ち、その解決に乗り出した井川の方が遥かに立派な外交感覚を持っていた。
 確かに、井川に日本を代表しているかのような言動も見られるが、少なくとも近衛首相の了解は得ての渡米である。
 しかも、駐米大使野村の信任を得て活動しているのである。むしろ、最後まで曖昧な態度に終始した近衛の方にこそ問題があるのではないか。
 しかし、近衛の優柔不断が松岡の異常さに気おされてのものであることを考えれば、その罪はまたもや松岡に帰っていく。
 また、野村の要請に応えて正式に陸軍省から派遣された岩畔に関しては、日米交渉に参画する資格がなかったというような話はとうてい通用しない。
 実際、アメリカ国務省関係者らが同席をも忌避したのが、この素人外交団ではなく、若杉公使であったということはまことに皮肉な話である(野村−ハル会談に 並行して設けられた事務方会議で、初回から国務省役人を不快にさせた若杉公使はハルからの抗議でメンバーから外され、残ったのは井川と岩畔だけであっ た)。
 重光葵が、ヨーロッパから帰国する途中ワシントンに立ち寄り、岩畔、井川にのみ頼って交渉を進める野村に仰天して、もっと大使館員たちを使うようにアドバイスしたという話があるが、事実は、大使館員たちが使いものにならなかったということである。

―打電されなかった4原則__諒解案はでっちあげだったのか―

 「日米諒解案」に対する否定材料として最も大きなものが、それが日本に打電された時、アメリカ案であるかの如く表現されていたという点と、ハルが提示していた4原則が打電されていなかったという事実である。
 岩畔らは日本を騙そうとしていたというのである。
 しかし、実際そうだったのだろうか?
 問題のワシントンからの電報であるが、これの作成は、後に岩畔も述べているように、若杉公使の仕事であった。
 もちろん、そこに、岩畔も立ち会ったかもしれないし、若杉1人のしわざであったと断定することはできないが、岩畔1人で文面を変えることができるような状況ではなかった。
 電文の問題部分を示す。

 本十六日国務長官卜私邸二於テ会談長官ヨリ別電第二三四号(両国了解案卜仮称ス本了解案二付テハ予テヨリ内面工作ヲ行ヒ米国政府側ノ賛意ヲ「サウンド」シ居リタル処「ハル」長官二於テモ大体之二異議ナキ旨確メ得タルニ依り本使二於テモ内密二千与シ種々折衝セシメタル結果本案ヲ約シタルモノナリ)ニ依り交渉ヲ進メテ宣シク政府ノ訓令ヲ得ラレタキ旨申出アリ長官ハ貴使トノ間ノ話ガ進ミタル後東京ヨリ否認サルコトアラバ米政府ノ立場ハ困難トナルヲ以テ斯クシタシト申セリ

  「本案ヲ約シタルモノナリ」
という部分がアメリカとの正式の合意であると受け取れるというのだが、この間題に関しては、京都産業大学・須藤眞志教授著『岩畔豪雄と日米交渉』が詳しいので引用紹介する。

 諒解案の出所に関しても「予テヨリ内面工作ヲ行ヒ米国政府側ノ賛意ヲ「サウンド」シ居りタル」と内面工作を行ってアメリカの意向を「打診」していたことが明らかである。
また、ハルの見解もあくまで「大体之二異議ナキ」でありあくまで「大体」であり、全面的ではない。
アメリカ側提案だとして「大体」などということがあるであろうか?
また、野村自身の立場に関しても「本使二於テモ内密二千与シ種々折衝セシメタル結果本案ヲ約シタル」と自分自身が諒解案の作成に「関与」したことを明らかにしている
 アメリカ側が提案するものに日本の大使が「関与」するということなどあり得るはずもない。また、この電文の結び「……何卒此ノ筋ニテ交渉ヲ進メテ宜シキ御回訓二接シタク切望ノ至リナリ」は「諒解案」がどういう位置づけかを雄弁に物語っている。
もし、アメリカからこれでどうかと持ちかけられたものであるならばこんな言い方はしないであろう。日本が持ちかけて相手もそれに乗りかかっている、この好機を逃したくないという野村の切々たる心情が伝わってくる文面ではある(傍点著者)。

 さらに、須藤教授が挙げる根拠は、あくまでこれは「諒解案」(Draft understanding)であり、「協定案」(agreement)でも「条約案」でもなかったというものである。
 既に電報のタイトル自体が、その位置づけを物語っており、これを「アメリカ側提案」と解釈した外務省こそ「早とちり」であったと教授は結論する。
 また4原則の打電漏れであるが、これも実際のところ岩畔の差し金かどうかは不明である。
 思わぬ事態の進展に、自分にも手柄があると考えた電文起草の責任者若杉が、これは書かなくてもいいと判断したものかもしれない。
 少なくとも、岩畔がもともと波長の合わない若杉にそんな謀略への荷担を持ちかける可能性は極めて低い。
 また、岩畔は4原則に関して野村から何も話を聞いていなかったという指摘もある。(※2)
 真相究明はきわめて難しいようである。
 確かに、報告をしていないということで、格好の攻撃材料にはなるが、4原則そのものに、そこまで大騒ぎしなければならない価値があるだろうか。
 読んでみれば分かるように、どの条文をとっても実に些細な常識論であり、それを具体化したものが日米諒解案といって差し支えがない。
 岩畔が4原則を意図的に伏せたのか、あるいは全く知らなかったかは別として、4原則の精神は岩畔とドラウトによって既に「日米諒解案」に十分盛り込まれていた。
 むしろ、こうして戦後も頑なに日米交渉の否定にやっきにならざるを得ない人々の存在こそ1つの真実を語っているのではないだろうか。

―ハルやルーズベルトの真意について―

 ハルやルーズベルトの日米諒解案、また日米交渉に対する真意については現在に至るも諸説紛々としている。
 ハルやルーズベルトが折々に行った発言を持ち出し、彼らが日米諒解案には否定的であったとか日米国交の回復に悲観的であったとする説は数多い。
 彼らは最初から開戦までの時間稼ぎで日米交渉を続けていたというような説があるかと思えば、それとは逆に、時間稼ぎをしていたのは日本であるというような説までさまざまである。
 しかし、政治家にとって、言葉は特定の意図を達成するための1つの武器であり、その一言半句を真に受けて真意を推し量ることはきわめて愚かな行為である。 どんな状況で口に出され、その後どんな展開があったかを分析しなければ真実は見えてこないだろう。本書が、日米交渉の流れを具体的に呈示したのはそのため である。
 事実の流れを見れば、ハルやウォーカーも最初はきわめて好意的に話し合いに臨んでおり、最初から時間稼ぎのために対話を始めたとはとても思えない。
 野村や岩畔、井川らの努力を高く評価したハルのオーラルステートメントを見ても、彼らの誠意は十分米国首脳に理解されている。
 日米交渉の内容を逐一ヒトラーに報告した松岡にいらだったハルの気持ちも十分に理解できるし、独ソ戦開始とともにアメリカの交渉態度が時間稼ぎへと変わっていくプロセスも明瞭である。
 「アメリカは最初から時間稼ぎとして日米交渉を開始した」
 「ハルやルーズベルトに日本と妥協するつもりはなかった」
 「日米交渉は成立しようがなかった」
 などと断ずる歴史家に欠けているのは、状況は時間が経つに従って変化するという視点であろう。
 限られた期間ではあれ、日本に対するアメリカの宥和(ゆうわ)政策は現実に存在し、日本は唯一のチャンスを松岡や外務官僚の倣慢で逃がしてしまったのである。
 いみじくも岩畔が言っている。
 「古今東西を問わずルーズベルトのような優れた政治家は常に弾力性のある多目的政策を採用するのを例とする」
 ハルやルーズベルト、ウォーカーらの柔軟な政治判断は、松岡だけでなく頑なに反日感情を堅持するアメリカ国務省の官吏たちとも明らかに一線を画している。
 彼らは、激流に流されながらも舵を固定することなくその舵さばきはむしろ巧みでさえある。
 まさに、岩畔が感心するように熟達の政治家と言って良い。
 一方、日本はどうかというと、松岡と違い、対米戦を避けなければならないという認識だけはあった近衛だが、彼に足りなかったのは好機補足の意志と能力であった。
 日米諒解案を見過ごした近衛は、状況がいよいよせっぱ詰まった昭和16年8月、日米首脳会談を再度提案する。
 この時ばかりは、優柔不断の彼と言えど、心中秘かにアメリカ側条件の丸飲みを決意していたと言われる。
 しかし、時は既に遅かった。
 この時になると、アメリカ首脳部にとって、日本という存在は、ファシズム対自由世界の対決という構図を維持するために大切になっていた。
 だから、アメリカはその申し出をまったく相手にしなかった。
 近衛の肚を読んだ軍務課長・佐藤賢了は、「アメリカは馬鹿だのう。はや無条件で会ってみい。近衛が主張するけれども通らない。近衛は、もうこれ以上私には できませんと電報してくる。天子様はそれでよろしいとご裁決なさる。見え透いているんだがのう。やっぱりアメリカは日本の奥の奥を知らんのじゃよ」と言っ たという。(※3)
 近衛の決断は「too late」だった。
 川の流れと同じで下流まで来てしまえば行く先はもう変えられない。日米諒解案が打ち上げられた時こそ分水嶺だった。

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