5.『昭和天皇独白録』の起こした波紋
―昭和天皇の評価―
20世紀も末となって、埋もれていた岩畔、井川らの努力にかすかな光が当たった。
1991年、初版が出版された『昭和天皇独白録』(文藝春秋)である。
「日米交渉は3国同盟成立の頃から非公式に話が始まつたのでカトリック僧と岩畔大佐等の人物のことは聞いてはゐるが、それ以上のことは知ってはゐない、最初は非常に好調に進んだが大切な時に松岡が反対したので駄目になつた」
「日米交渉が纏り得る機会は前后3回あった。第1回は16年4月、野村大使の案に基づいて米国から申出てきたときである。先方の条件は日本に採(ママ)り 大変好都合のもので陸軍も海軍も近衛も賛成であつたが、松岡只1人自分の立てた案でないものだから、反対して折角のものを挫折せしめた」
それまでベールを被っていた昭和天皇ご自身の日米交渉に対する見解が初めて世に出た。
しかし、この記述を我慢できないと感じた人々は多かったようである。
加瀬俊一は、平成6年、『日米戦争は回避できた』(善本社)という本を出版し、その中に
「独白録では読めない真相」という1章まで設け、「松岡批判は公正を欠く」とし、こうした認識に天皇を導いた「側近の見識を疑わざるを得ない」と書いている。
真相が読めなかったのが誰なのか、議論の分かれるところではある。
―東条英機にも脚光が―
近年、太平洋戦争に於ける日本の正当性を主張することが流行となり、東条英機にもにわかに脚光が当たるようになった。 彼を主人公とした「プライド」という映画も製作され、議論を呼んでいる。製作陣には加瀬俊一の子息、加瀬英明の名前も挙がっている。
岩畔により、「何か動物が試行錯誤しているような行動が多かった」と表現され、融通の利かない東条を東京裁判史観へのアンチテーゼとして持ってくることに割り切れない思いを抱いた人は決して少なくなかったのではないだろうか?
岩畔のインド独立工作に対する対応を見ても、彼がインド人をアジアの友人としてではなく、むしろタグで利用できる兵力と考えていたのは明らかであり、決してアジアのために立ちあがったというようなものでないことは明らかである。
真に見るべきものを隠し、まがいものに目を奪わせるようでは、日本人の歴史観をさらに混乱させるだけと申し上げたい。
―歴史というもの―
「歴史にイフ(if)は無い」という言葉がある。
確かに、今となってはすべてが「イフ」である。
しかし、「学びて思わざればすなわち罔(くら)し」というように、イフを考えることこそ歴史を学ぶ意義ではないだろうか。
歴史にイフはないと言いながら、「松岡の妨害がなかったとしても交渉は成立しなかった」などとイフを駆使する学者や評論家たちの態度は奇怪である。
彼らは、日本の幕僚の言葉、ルーズベルトやハルの発言、アメリカ国務省の書類などを駆使してそのイフを証明しようとするが、「日米交渉は独ソ戦開始までは 成立の可能性が十分にあった」という岩畔の証言に対しては、「当事者としてはそう思いたかったであろう」と、にべもなく切り捨て、一顧だにしようとはしな い。
日米交渉時、駐米海軍武官であった横山一郎は、戦後、日米諒解案を評し、「今日まで恋々たる愛着を感ずる」とまで言って嘆き、その時の松岡の態度を「奇怪なり」と評している。
岩畔や野村、井川たちだけでなく、現場にいた者は、正常な感覚の持ち主である限り、誰もがそれをチャンスと認め、その結実を切望していた。
旧外務官僚とそれに連なる歴史学者たちの否定論は後から付けた解釈に過ぎない。
事実、日米諒解案が妥結しなかったのは、ナチスヒトラーとの友誼を虎の子と考えた松岡や外務官僚らの倣慢な横車によるものであり、それこそ日米開戦への 「謀略」だったのではないか――。4原則が打電されていなかったとか、米国提案のように粉飾されていたというのは、自分たちの親ナチス政策を糊塗するため にあとから見つけた小さな瑕疵(かし)に過ぎない。
弾の決して飛んでこない大本営から多くの将兵を死地へと追いやった参謀たち同様、戦後の歴史家たちは我が身を安全地帯に置き、かけがえのない真実を墓場へ追いやったようである。
日米諒解案をだめにしたのは松岡と外務省であった。
それが事実である。
―岩畔豪雄著『私が参加した日米交渉』前書き―
この章の最後に、岩畔の『私の参加した日米交渉』の前書きを引用しておく。
策ニ次世界大戦は世界の様相を一変させた世紀の大戦争である。
この戦争の結果、世界政局の担手は交代し、被征服民族の多くは独立と自由とを獲得し、国際的協力は急速に伸長する等幾つかの重大な変化が現われている。
しかしこの戦争の影響を我々の祖国のみに限って見るとき、国土は焦土化し、300万の同胞は死し、海外の領土は無くなり、敗戦の苦しみを味う等深刻な打撃を受けた。
それ故戦後我国に於ては戦争忌避、平和礼讃の風潮が津々浦々にまで漲(みなぎ)り、第二次世界大戦に突入した当時の指導者特に軍人に対する青任追求は厳しいものがあった。
私はこのような風潮に対し、今更反論を加えようとするものではないが、戦前の指導者特に軍人の全部が平和の維持に努力を払うことなく、大東亜戦争に突入したと断定する見解には異義を挟まざるを得ない。
この記録に収められている日米交渉も結果的には不成功に終ったとは云え、戦争回避を目的とする努力の1つであったことは間違いのない事実である。
そしてこの事実から見ても平和の維持が如何に難かしいものであるかを学びとることが出来よう。
平和の維持、特に世論の大勢が主戦論に傾きつつある時の平和の維持は、演説、祈祷、署名、デモ、スト等で得られるような甘いものではなく、具体的な平和維持策、決死の覚悟、血の出るような努力等によって辛うじて実現し得るのが歴史の掟である。
ところで第ニ次世界大戦の前夜に行われた日米交渉も今では歴史的事実になり、これに直接参加したハル国務長官、バレンタイン氏、ウォルシュ師、ドラウト師 (以上米国側)、野村大使、井川忠雄君、若杉公使等(以上日本側)は他界し、今では私のみが生き残っているが、その私の余命も永くは無さそうである。
その私が日米交渉の経過を公表することに決した動機の1つはこの歴史的事実の真相を書残すことが同胞に対する私の義務であると感じたことであり、その2つ は平和の維持が如何に困難なものであるかを世の人々特に平和愛好者に知って貫いたいと考えたことであり、その3つは物故した当事者に対して芽生えた供養心 である。
この記録は交渉当時書き留めておいたメモを基にして終戦直後纏めたものであるが、公表することになると生存中の関係者に迷惑を及ぼさぬよう表現に多少の修正を加えたことを附け加えておく。