イワクロ.com〜かくして日米は戦争に突入した〜

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  • まえがき
  • プロローグ
  • 第一章
  • 第二章
  • 第三章
  • 第四章
    • 1.三国同盟と松岡洋右
    • 2.座礁
    • 3.松岡から届いた指令
    • 4.失われた最後のチャンス
    • 5.連絡会議での熱弁も実らず
    • 6.それからの岩畔
    • 7.【第四章】参考引用文献
  • 第五章
  • あとがき
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第四章「挫折、そして日米開戦」

2.座礁

―深夜の連絡会議―

 松岡が首相官邸に姿を現したのは、その晩、9時をまわってからだった。
 待ち受けた閣僚らは、早速松岡を交えて政府統帥部連絡会議に入った。
 松岡にその日1日振りまわされて不機嫌を隠せない閣僚たちだったが、誰もが一刻も早く日米交渉を前進させなければならないと考えていた。
 しかし松岡は、閣僚たちを前に訪欧の成果を延々と喋り続けた。歓迎会の酒も入って、松岡はいつにもまして冗舌だったようで、近衛は、なかなか話を切り出せ なかった。しかし、やっとのことで日米諒解案の話を持ち出した近衛に、松岡の返事はつれないものだった。
 「ドイツ、イタリアとの信義にかかわる問題であるから、2週間か1ヵ月、または2ヵ月ぐらい慎重に考えなければ、返答はできない」
 それだけ言うと、落胆し呆気にとられる閣僚たちを尻目に、松岡は過労を理由にさっさと退席してしまったという。
 この1、2ヵ月という期間が、ヒトラーの指示を仰ぐことを念頭においた数字だったことは後になって判明する。
 その後、松岡は、事の次第をヒトラーに報告し、その指示を仰いだ。彼とヒトラーとの間に交わされた電文はアメリカの傍受するところとなった。
 こうして日米諒解を座礁させると、松岡は体調の不良を理由に自宅に引っ込んでしまった。
 すると、驚くべきことに今度は近衛もまた、病気を理由に自宅に引きこもってしまった。心労きわまったのだろうか?
 かくして、国家存亡を賭けた重大な時に、日本政府の2本柱は自宅に引き篭もってしまったわけである。

―ニューヨークへ移動―

 一方、返ってこない回答にしびれを切らした岩畔は、松岡に直接電話をかけてみようと思い立つ。大体の事情は武藤から連絡を受けていた。
 以前から、松岡とは何かと交渉のあった岩畔としては、自分が直接諒解案の重要性を説けば、松岡も納得するのではないかと考えたようである。
 遅れる回答に気が気でなかった大使館スタッフも賛同し、岩畔は井川を伴ってニューヨークへ移動した。
 わざわざニューヨークへ移動したのは、大使館の電話がアメリカ当局によって盗聴されているのではないかという心配があったからである。
 4月29日、岩畔と井川を乗せた列車は一路ニューヨークへと向かった。
 ここで面白い出会いがあった。
 同じ車両に妙齢の婦人と紳士が乗り合わせていたが、食堂車でたまたま近くに座ったのをきっかけとして、彼らと会話を弾ませた井川と岩畔は、その紳士が実は前大統領フーバーの秘書リッチモンドであることを知って驚く。
 なぜなら、彼らのニューヨーク行は、その目的として、松岡に電話をするだけでなく、共和党本部に元大統領フーバーを訪ねることをも含んでいたからである。
 2人の話を聞いたリッチモンドは、フーバーとのアポイントをとることを約束した。
 それにしても、野党である共和党の指導者にもアプローチすることを忘れなかった井川、岩畔はわずかな滞在期間中にアメリカの政治システムに通暁してしまったかのようである。

―「わかっちょる、わかっちょる」―

 やがて、列車はニューヨークに到着、リッチモンドらと別れた2人は、5番街のバークシャイヤーホテルに部屋を取った。
 時差を考えてしばらく待たなければならなかった2人は、ルームサービスでワインをとると天長節を2人だけで祝った。
 午後8時、東京時間の午前7時、井川は松岡邸に国際電話を依頼した。
 やがて、受話器を通して岩畔の耳に聞き慣れた松岡の声が入ってきた。
 しかし、木で鼻をくくったような松岡の言葉は、2人の間に開いた距離が決して地図上のものだけではないことを示していた。
 岩畔は早速用件に入った。
 「こちらから送った魚は、至急料理しないと腐敗する恐れがあります。一同首を長くして 魚を召し上がった感想を一日千秋の思いで待っております」
 送った魚とは、もちろん日米諒解案のことである。
 「わかっちょる、わかっちょる。野村にあまり腰を使わぬように伝えておけ」
 必死の岩畔に、松岡の返答は下品かつ倣慢なものであった。
 「1人合点は禁物です。あなたがそんなにのんきでおられるなら、魚は腐るに違いありません。腐ったが最後その全責任はあなたが背負わねばならないのですぞ」
 怒りを抑えながら必死の説得を試みる岩畔だったが、魚が腐った時にどうなるか、倣慢な松岡に理解させることはできなかった。
 膨大な距離を隔てて、松岡の繰り返す、「わかっちょる、わかっちょる」が空しく響いた。
 けんもほろろだった。
 特異な政治感覚を持つ松岡なら、きちんと話せば諒解案の意味を理解してくれるのではないかという、岩畔の期待は見事に裏切られた。
 「松岡はドイツから帰って、まるで人が変わった」
 近衛や天皇がそう言ったように、今や悪魔に魂を売ったかのような松岡に、道理は通じなかった。
 電話が終わり、7分ほどの通話に神経をすり減らした岩畔は、話し合いの結果を心配する井川の問いかけに生返事を返しながら、そのまま10分ほど眠り込んでしまったという。ワインの酔いが出てきたのかもしれない。
 悪夢にうなされながらの彼の眠りは、安らかなものではなかったろう。
 しかし、やがて、悪夢を吹き飛ばすかのようなけたたましい電話のベルが鳴り響いた。リッチモンドからの電話だった、明朝のフーバーのアポイントがとれたというのである。
 「ともかくなんとかしなければ」
 まだ気落ちしてはいられなかった。

―「暑くなる前」の意味―

 翌朝、岩畔、井川の2人は、リッチモンドの指示に従ってウォルドルフ・アストリア.ホテルの共和党事務所を訪れた。2人を待っていたのは、共和党党首で前大統領フーバーのにこやかな笑顔だった。
 フーバーと話をして2人が驚かされたのは、彼が岩畔、井川の渡米の目的と、渡米してからこれまで行ってきたことの大部分を既に知っていたことだった。
 「野党であるから、交渉に直接関わることはできないが、もし日本と現政権の交渉がまとまるようであれば、共和党としてもその方針に従って、太平洋の平和維持のため努力するつもりである」
 フーバーは断言した。
 しばらくの歓談の後、いよいよ辞去する2人に、フーバーは急に真顔になって意味ありげにこう付け加えた。
 「この交渉は暑くなるまでに妥結しなければならない。もし、交渉がそれ以降にもつれこむようなら、恐らく交渉は成立しないだろう」
 フーバーの語る「暑くなる前に」という言葉。
 ハルが執拗に繰り返す「遅すぎる(too late)ことのないように」という言葉。
 岩畔の脳裏で、その2つは奇妙に共鳴した。
 「何故、遅すぎてはいけないのか?」
 「『暑くなる前』とは、どういうことなのか」
 やがて、夜となく昼となく考え続けた岩畔の脳裏に浮かんだのは、新任将校の時、目にしたシベリアの雪解け風景であったのかもしれない。
 「『暑くなる』という言葉は『ロシアでの軍事行動』と関係しているのではないか?」
 暑くなれば雪が解け、ロシアでの軍事行動が可能になる。
 「では誰がロシアに攻め込むというのか?」
 「ドイツしかない!」
 岩畔がこの謎解きが正解だったことを知るのは、それから1ヵ月以上も先のことだった。
 まさに、松岡が3国同盟と日ソ不可侵条約をリンクさせ、大陸4ヵ国を結束させたと有頂天になっていた時、アメリカ首脳は野党の党首に至るまでドイツのロシア侵攻の可能性を既に予知していたということになる。
 この頃、ヒトラーの腹心ルドルフ・ヘスが単身飛行機を操縦してイギリスへ謎の亡命を遂げているが、米英諜報機関はヘスからドイツのソ連侵攻計画を聞き出していたと言われる。
 もちろん、事の真相は、その後ヘスがシュパンダウ刑務所に生涯幽閉され、「世界一贅沢な囚人」としての一生を終えた今となっては謎のままである。

―ドラウトのぼやき―

 フーバーとの会見を終えた2人は、その足で、同じく5番街にあるクーンレーブ商会の支配人ストローズの屋敷を訪れた。
彼こそ「神父工作」の仕掛人である。
 その後、アメリカ原子力委貞会の委員長として原爆の開発にも重大な役割を演じたストローズは、当時既にアメリカ陸軍省のアドバイザーだった。
 井川としては、渡米後、直ちにストローズを訪ねようと思っていたが、なぜかドラウトに、
 「事態が一段落するまでは会いに行かない方が良い」
 と、止められたため、会見はこれまで延び延びになっていた。だから、これが初めてのストローズ訪問だった。
 ストローズとその夫人の暖かいもてなしを受けた2人は、ストローズ邸を辞去すると寸暇を惜しむようにニューヨーク郊外のメリノール派本部を目指した。
 出迎えたドラウトは、
 「日米諒解案作成のため、ワシントンに滞在している間にブラジルの株価が暴落して、メリノールの資産に大きな欠損を出した」
 とこぼして見せた。

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