イワクロ.com〜かくして日米は戦争に突入した〜

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  • まえがき
  • プロローグ
  • 第一章
  • 第二章
  • 第三章
  • 第四章
    • 1.三国同盟と松岡洋右
    • 2.座礁
    • 3.松岡から届いた指令
    • 4.失われた最後のチャンス
    • 5.連絡会議での熱弁も実らず
    • 6.それからの岩畔
    • 7.【第四章】参考引用文献
  • 第五章
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第四章「挫折、そして日米開戦」

5.連絡会議での熱弁も実らず

 8月23日、岩畔は政策決定の最高機関となった政府統師部連絡会議に出席した。
 主戦論を日米交渉論に転回しうる最後の機会であることを、自分自身に言い聞かせながら、異常な決意をもってこの会場に臨んだという。
 岩畔の演説は1時間半に及んだ。 
 日米戦力比。
 日本には万に一つの勝算もないこと。
 日本が取り得る3つの方策とそのそれぞれの得失。
 日米交渉を打開するためには、日本の条件を引き下げなくてはならないこと。
 岩畔は、日本の命運がかかっていることを実感しながら諄々と説いた。
 「物量から見た日米の戦力比は、鉄鋼1対20、石油1対数百、石炭1対10、電力1対6、飛行機1対5、自動車1対50、船舶1対2です。これだけの物量及び工業生産力の差があって戦争に勝てる訳は有りません」
 この時期、日本の指導者たちを前にこれだけのことが言えたのは岩畔だけである。
 戦後になって、当時要職にあった多くの者が「(日本に勝ち目がないことは)分かっていたが、とてもそれを言えるような状況ではなかった」と弁解しているが、岩畔だけは身の危険も顧みず、それを言ってのけたのである。
 この会議で不思議なことが起こった。
 挨拶に行った時も全く無関心だった東条が、熱心に話を聞いていたのである。さらに、話を終えた岩畔に2、3の質問をした上で、「本日の説明を筆記して提出せよ」とまで命じた。
 「脈がある」
 と思った岩畔だったが、その期待は翌日みごとにうち砕かれた。
 翌日、出頭した岩畔に東条が放った言葉は、「その件はもういい。近衛歩兵第5連隊長に転出を命じる」というものだった。
 すべては水泡に帰した。
 岩畔はその4日後、8月28日、任地であるプノンペンに向けて東京を後にする。
 「尊氏(たかうじ)東上の報に接し、天皇の比叡山行幸の策を進言して採用せられなかった時の楠公(なんこう)の心情・・・・・・」
 この時の心境を岩畔はそう記している。東京に舞い戻ったときの岩畔が心中に秘めていた決意とその方策を、この言葉は暗示している。
 戦争へひた走る日本をくい止めることのできる唯一の力。口にこそ出さなかったが、岩畔はそれ(宮中)を動かそうとしていた。彼の東京からの排除はそのため一層急がれたのであろう。
 彼の日本滞在はわずか2週間であった。
 岩畔に転出命令が下ったことを聞いた近衛首相は、「命令を撤回させる」と言明したが、実現はしなかった。
 岩畔も、もはや近衛の話は当てにしなかった。彼は、これまでの経緯から、既に近衛のことを「頭は悪くないが実行力に乏しい男」と見ていた。
 「一旦下った陸軍の命令は、首相といえど覆せない」
 そのことは、岩畔が一番良く知っていた。
 一方、ドラウトからも井川宛てに「ロック(岩)サイド(畔)の仏印行を阻止せられたし」
 との電報が届いたが、それも虚しいばかりであった。
 「近衛総理にさえできなかった問題が異国の僧侶の電報でどうにかなる筈は勿論なかった」
 既に、岩畔は覚悟を固めていた。軍人である限り命令が下れば戦地に赴き、死力を尽くさなければならない。
 幼少の頃からひたすら培ってきたのはそんな覚悟であった。
 岩畔出征の日、東京駅には6、70人の見送りが集まった。岩畔は、かねて懇意の佐藤裕雄中佐の手を握りしめると静かに語ったという。
 「今こんなに盛大な見送りを受けて任地に赴くが、もし生きて東京に帰ることありとすれば焼け野原の真っ只中に残されているプラットホームに1人寂しく降りるであろう」
 終戦後、ビルマ戦線から呼び戻された岩畔は、奇しくも再び迎えに出てきた佐藤とこの時のことを思い出して涙を流しあったという。
 岩畔には既に戦争の行方が見えていた。

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